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判例コラム

 

第107号 いわゆる「安保法制」違憲訴訟から考察する裁判所の役割 

~名古屋高裁平成28年12月22日判決※1とその原審判決※2

文献番号 2017WLJCC015
名古屋市立大学大学院
教授 小林 直三

1.はじめに

 2014年7月に憲法9条の下で集団的自衛権に基づく武力行使を認めた「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目ない安全保障法制の整備について」と題する閣議決定(以下、本件閣議決定)が行われ、さらに2015年9月に、平和安全法制整備法と国際平和支援法(以下、平和安全法制関連二法)が制定された(以下では、平和安全法制整備法により改正された諸法および国際平和支援法を「安保法制」と呼ぶ)。しかし、本件閣議決定や安保法制の必要性や憲法適合性に関する当時の政府などによる説明は、必ずしも十分なものとはいえなかったと思われるし、その後、現在に至るまでの間に、政府や制定に関わった人たちによって十分に説得力のある説明がなされたと言い切れる人は、それほど多くはないだろう。
 本稿は、そうした状況認識を踏まえて、本件閣議決定および安保法制に対する違憲訴訟から裁判所の役割を考察するものである。なお、本稿では、考察にあたって、安全保障関連法違憲訴訟のうち、Westlaw Japanに収録されている最新のものである名古屋高裁判決とその原審判決を取り上げることにしたい。

2.判例要旨

 本件は、本件閣議決定、平和安全法制整備法により改正された諸法、国際平和支援法のそれぞれ一部につき、違憲・無効の確認を求めるとともに、国家賠償を求めた事案である。

  1. ① 原審判決(一審判決)
     原審判決(一審判決)は、以下のとおりである。
     まず、「本件閣議決定は……特定の分野に関する国内法制の整備における政府の基本方針についての内閣の意思を決定したものにすぎず、それ自体が外部に効力を及ぼして原告の権利義務ないし法的利益に直接影響を与えるものでな」く、したがって、閣議決定の無効確認に係る訴えは「法律上の争訟とはいえず、不適法というべきである」とした。また、「原告は、本件閣議決定によって、原告を始め国民の多数が身体的・精神的苦痛を受け、憲法で保障されている平和的生存権を始めとした諸権利が侵害された」とするが、「本件閣議決定が外部に効力を及ぼすものでない以上、原告の主張する身体的・精神的苦痛は抽象的なものであって、具体的なものとは認められない」ことから、本件閣議決定に伴う国家賠償に係る訴えも同様に不適法とした。次に、平和安全法制整備法により改正された諸法や国際平和支援法の違憲・無効確認に係る訴えに関しても「抽象的に法律が憲法に適合するかしないかの判断を求めるものであ」り、問題となる「各規定は、原告に対して具体的に適用されておらず、しかも適用される具体的状況にもないことからすると、原告の主張する権利侵害は抽象的なもの」とし、これに関しても「法律上の争訟に当たらず、不適法である」とした。
     次に、「憲法前文には『平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』との文言があり『権利』と表現されている」が、それは「『崇高な理想と目的』として宣言されたものと考えられ……『平和のうちに生存する権利』を裁判規範ないし具体的権利として定めたものと解することはでき」ず、さらに「憲法9条の文言上国民の権利としての平和的生存権に言及されていないことは明らかであ」り、「憲法前文の趣旨を尊重して憲法9条を解釈するとしても、平和ということが理念ないし目的として抽象的な概念であることからして、国家の統治機構等についての規範である同条の解釈において、具体的権利性のある平和的生存権が保障されているものと解することは困難である」とした。そして、「平和的生存権が憲法13条の幸福追求権の一環をなすとしても、同様に、その具体的権利性を肯定することは困難であ」り、「原告は、平和的生存権は、現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして、全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ、単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではなく、憲法上の法的な権利として具体的権利性を有すると主張するが、独自の見解であって採用できない」とした。さらに生存権に関しても、「憲法25条の規定は、国権の作用に対し、一定の目的を設定しその実現のための積極的な発動を期待するという性質のものであって(最高裁昭和57年7月7日大法廷判決・民集36巻7号1235頁参照)、憲法25条に具体的な権利性までは認めることはできない」とした。したがって、平和安全法制整備法により改正された諸法や国際平和支援法に伴う国家賠償請求に係る訴えには理由がないとした。
     以上のことから、違憲・無効の確認に係る各訴えを却下とし、国家賠償請求を棄却とした。
     そのため、原告が控訴をした。

  2. ② 控訴審判決(名古屋高裁判決)
     まず、「本件各無効確認請求は、抽象的に本件閣議決定及び平和安全法制関連二法が憲法に違反し無効であることを求めるものであって、『法律上の争訟』には該当しないと解する。その理由は、原判決の『事実および理由』……に記載のとおりであるから、これを引用する」とした。また、国家賠償請求に係る訴えに関して、「本件閣議決定及び平和安全保障関連二法の立法行為によって、控訴人の何らかの権利が侵害されたとは認められない。その理由は、原判決の「事実及び理由」……に記載のとおりであるから、これを引用する」とした。
     以上のことから、「原判決は相当であって、本件控訴には理由がないから、これを棄却する」と した。

3.検討

 本件名古屋高裁判決および原審判決は、その結論自体は従来の先例にしたがったものであり、その限りにおいて、一般論としては「常識」的な判決だといえる。ただし、判決の出された文脈を広げて考えた場合には、いくつかの問題も指摘できるのではないだろうか。
 まず、国家賠償請求に係る訴えに関して、原審判決は、一応のところ、憲法上の問題に関して答えているようにみえるかもしれない。しかし、たとえば平和的生存権に関しては、実質的には、その具体的権利性が認められないとする結論を述べているに過ぎず、その理由付けは、ほとんど述べられていない。
 確かに、いまのところ最高裁で平和的生存権を認めた例はないが、すでに長沼事件一審判決※3だけでなく、近時も自衛隊のイラク派遣に関する名古屋高裁判決※4、岡山地裁判決※5のように具体的権利性を認めた事例が出ている。また、「憲法前文にあるように、日本国憲法は、政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起きることがないようにすることを日本国民が決意して確定し、その上で、恒久の平和を念願し、さらに、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認しているものであるから、憲法の定めた恒久平和主義の理念は、戦争の惨禍により侵害されることになる国民の生命権ないし平和的生存権の保障をその内実とするともいえよう。憲法学者である当審証人上田勝美が「『平和のうちに生きる権利』の核心をなす、あるいは前提をなす権利は『生命権』そのものなのである。」と述べていることも、その趣旨をいうものと解される」として、憲法学者の上田勝美の意見を採用した大阪高裁判決※6も出ている。それらのことを踏まえれば、具体的権利として平和的生存権を認める考えにも一定の説得力があるものといえるだろう。そして、近時、こうした判決が下されてきているという文脈で裁判所の役割を考察するならば、仮に、平和的生存権の具体的権利性を否定するにしても、もっと丁寧な説明が必要であったのではないだろうか。
 次に、違憲・無効確認に係る訴えに関して、原審判決は実質的な憲法上の争点に答えるまでもなく、単に法律上の争訟性を否定することで却下としている。しかし、重要な憲法規範の変容に関わる文脈で原審判決の内容を捉えた場合、はたして、それは妥当なものだといえるだろうか。
 このことに関連して、参考としたいものに米国のB・アッカーマンの二元的民主政論の構想がある。アッカーマンの構想に関する多くの論考を発表している憲法学者の大江一平によれば、アッカーマンの構想とは次のようなものである。
 すなわち、「アッカーマンは……アメリカ合衆国憲法(以下、アメリカ憲法)の民主プロセスを通常政治と憲法政治に区別する」。そして、「通常政治において、人々は、アパシー、無知、利己性によって特徴付けられる私的市民として行動する」。この「通常政治における人々の判断は熟議に基づく『考えぬかれた判断』といえるものではなく、通常政治の主導権は人民の代表である政治家に委ねられている」。それに対して、「憲法政治とは、政治的な熟議と人民の広範な結集による政治であるとされ、そこで人々は私的市民として政治に積極的に参加し、私益を超えて共同体の公共善のために熟議を行う」とされる※7。そして、この憲法政治では、高次法形成(不文法源も含めた憲法)に関わる政治が行われることになる。
 つまり、アッカーマンによれば、人々は私益に捉われる私的な存在としての側面と公共善のために熟議する公的な市民としての側面とをあわせ持っているのである(すなわち、「私的市民(private citizen)」)。そして、既存の高次法の枠内で行われる通常政治では、人々は私的な存在としての側面が強く(private が強調されるprivate citizen)、政治の主導権は政治家がもつことになる。しかし、高次法形成に関わる憲法政治に際しては、公的な市民としての側面が強くなり(citizen が強調されるprivate citizen)、「我ら人民(We the People)」による決定がなされるのである。
 また、アッカーマンの構想では、「高次法形成は次の5段階の手続を経て行われる」とされる。「すなわち、①憲法改正を企図する勢力が通常政治から憲法政治への移行を人民に知らせるシグナリング、②正式な憲法修正あるいは従来の憲法解釈を根本的に変更する変革的立法の形態で具体的な憲法改正の発案が行われるプロポーザル、③憲法改正に対する人民の委任を獲得するトリガーリング、④反対派の態度転換によって憲法改正が承認されるラティファイング、そして、⑤憲法改正の基盤が人民によって確立され、連邦最高裁の判決によって法典化されるコンソリデイティングである」※8。この5段階の手続では、形式的にこの流れに当てはまればよいというものではなく、これらの段階を経ることで、政治的な熟議と人民の広範な結集による政治(憲法政治)が行われ、「我ら人民」の熟議に基づく決定がなされなければならない。その意味で、この5段階の手続は、そうした憲法政治における「我ら人民」の熟議に基づく決定を促し、担保するものだといえるだろう。
 なお、ここでいう憲法改正は、正規の憲法改正手続を前提としたものではない。したがって、憲法典の条文を変更することではなく、その規範内容の変更のことである。また、この構想が判例法主義を前提としていることには注意が必要であろう。ただ、(もちろん、正規の憲法改正手続によらない高次法形成を認めるかどうかは慎重な議論が必要なところであるが)少なくとも、正規の憲法改正手続によるにしても、形式的に正規の憲法改正手続を経さえすればよいというわけ ではないはずである。その意味では、何かしらの形で「我ら人民」の熟議を促すためのシステムは、高次法形成のための(十分条件ではないにしても)必要条件だといえるのではないだろうか。
 さて、翻って日本の安保法制をみた場合、形式的には①と②の段階を経たようにみえるが、はたして、十分な説明が尽くされ、熟議を促したといえるのだろうか。
 憲法学者の孝忠延夫は、「議院内閣制の下における権力分立の対抗軸が、主として政府+与党(議院内多数者)vs 野党(議院内少数者)に移行している」以上、「政府・行政に対する議会的統制は、一定数の議員グループ(会派)の活動の機会を保障するとともに、個々の議員が積極的に活 動しうる場と機会を可能な限り保障することによって実効的なものとなる」としたうえで、「議院、委員会における議会内少数者権の保障と尊重は、政府・行政統制権の実効的行使のために議院の自律的判断によって工夫されなければならない」※9としている。確かに、孝忠のいうように議会内少数者権の保障と尊重とが十分であれば、政府・行政に対する議会的統制も機能し、そのプロセスのなかで「我ら人民」の熟議も十分に促されたかもしれない。しかし、現実にはそのようにはなっておらず、そのため、憲法改正を企図する勢力によるシグナリングやプロポーザルにおいても「我ら人民」に十分な熟議が促されたとはいえないものと思われる。
 そうであるならば、高次法形成(つまり、重要な憲法規範の変容に関わる文脈)にあたっては、権力分立の一翼を担う裁判所の役割として、その判決によって、「我ら人民」の熟議を促すことが求められるのではないだろうか。そして、そのためには、違憲・無効の確認の訴えに関して、形式的に法律上の争訟性がないからといって片づけるのではなく、(結論としては却下になるとしても)判決において十分に説得力のある形で憲法判断をすべきだったのではないだろうか。特に本件名古屋高裁判決は、原審判決を引用するだけで独自の理由付けを行ってはいない。しかし、これまで述べてきたことを踏まえれば、権力分立の一葉を担う司法機関の高等裁判所の役割として、原審判決で不十分な説明や判断に関して補うべきだったのではないだろうか。しかも、いずれの形にせよ国の安全保障を実効的なものにするためには、「我ら人民」の広範で深い理解が不可欠である以上、裁判所がその判決によって安保法制に関する「我ら人民」の熟議を促すことは、安保法制に批判的な人たちだけでなく、その制定に携わった人たちにとっても有用なことのはずである。
 今後、裁判所が「我ら人民」の熟議を促すにあたっての役割を果たすことを望むとともに、実際に「我ら人民」の熟議が行われることを期待したい※10

4.おわりに

 ところで、上田勝美は、国の安全保障方式に関して、従来からの「力による安全保障方式」と対比させながら、日本国憲法のそれは「信頼の原則による安全保障方式」だとしている※11。また、同じく憲法学者の澤野義一は、日本国憲法の解釈から非武装を導き出したうえで、それにもっとも適合した安全保障方式として「永世中立」論を展開している※12。ただし、こうした「信頼の原則による安全保障方式」を主張する立場においても、多くの場合には警察力による沿岸警備活動まで否定するわけではないし、また、「力による安全保障方式」を主張する立場であっても、外交努力や国家間の信頼関係の重要性を否定するわけではない(はずである)。そのため、日本の安全保障のあり方に関しては、本来的には合理的な対話や熟議が成立しうるものだと考えられる。
 ただし、「力による安全保障方式」を採用する場合には、通常、無辜の市民の犠牲を伴う。そして、そうした無辜の市民の犠牲を伴う武力行使を正当化するためには、個人の諸権利(生命に対する権利も含む)を超える共同体的価値を想定しなければならない※13。それに対して、「信頼の原則による安全保障方式」を採用する場合には、当該国家が積極的に無辜の市民を犠牲にすることを避けることができる※14。したがって、国の安全保障をめぐる意見の対立は、結局のところ、(生命に対する権利も含めた個人の諸権利を犠牲としうる)全体主義と(あくまで個人の諸権利を基底に考える)個人主義の間でのバランスに関わるものだと考えることもできるだろう。
 そして、そのように考えた場合、本件閣議決定や安保法制は、(従来から潜在的に、あるいは、ある程度、顕在化する形であった)個人の諸権利(生命に対する権利も含む)を超える共同体的価値の想定可能性をいっそう顕在化させ、全体主義と個人主義の間でのバランスを問い直したものだといえるだろう※15
 そうであるならば、今日、我々は、単に表面的に安全保障のあり方を考えるだけではなく、国家・個人(場合によっては社会)のあり方や関係性に関しても、深く考えることを求められているように思われる。

(掲載日 2017年5月22日)

(掲載日 2017年5月22日)

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