各国法情報オンラインサービス
Westlaw Japan(日本)
WestlawNext(Westlaw Classic)
Westlaw Asia(アジア)
Westlaw Middle East(アラブ諸国)
Westlaw Japan Academic Suite
Le Doctrinal(フランス)
法的調査ソリューション
Practical Law
Practical Law
Dynamic Tool Set
カスタマーケーススタディ
英文契約書のドラフティングに革新
〈Practical Law〉はスペシャリティを高める教材としても活用できる
契約書レビューソリューション
LeCHECK
便利なオンライン契約
人気オプションを集めたオンライン・ショップ専用商品満載 ECサイトはこちら
文献番号 2019WLJCC032
広島大学大学院法務研究科 教授
新井 誠
はじめに
旧優生保護法(1948年制定)は、目的の一つに「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」(1条)を挙げ、本人等の同意に基づいて実施される優生手術(同3条)や、本人の同意なく実施される優生手術(同4条)について規定していた。しかし、同法の一部が、優生思想を背景とする障害者差別にあたるとして、1996年に「母体保護法」へと改正される際、優生手術の規定は削除された。30数年の時を経て近年、この旧法に基づいて優生手術を受けた者に対する救済措置として、「旧優生保護法に基づく優生手術等を受けた者に対する一時金の支給に関する法律案」が、議員立法として国会に提出され、2019年4月に成立した※2。
本件は、こうした近年の立法による救済施策とは別に、遺伝性精神薄弱等を理由に(本人の同意なく)優生手術を受けさせられた当事者らが、2018年1月30日に仙台地裁に提訴した国賠訴訟である。本件では、当該施術が生殖に関する自己決定権(リプロダクティブ権)を保障する憲法13条等に違反するとしながらも、国家賠償法(以下、国賠法)1条1項に基づく国に対する賠償請求は認められなかった。以下、本件について解説したい。
Ⅰ 事実の概要
1948年制定の旧優生保護法に基づき、原告ら(60歳代、70歳代の女性2名)は、10歳代の時に強制的不妊手術を受けた。これについて、その強制的不妊手術の根拠となった旧優生保護法第2章、第4章及び第5章の各規定が違憲無効であり、子を産み育てるかどうかを意思決定する権利としての「リプロダクティブ権」を侵されたとして、国に対して次の賠償請求を行った。
まず、主位的請求として、旧優生保護法が1996年に母体保護法に改正されながら、その後も、被害回復のための補償に関する立法措置を国会が執らなかったことをめぐる立法不作為、または、厚生労働大臣が補償に関する施策を執らなかったことをめぐる施策不作為が、それぞれ違法であると主張して、国賠法1条1項に基づき損害賠償を求めた(争点1)。
また、予備的請求として、国賠法4条により適用される民法724条後段(除斥期間)の規定の本件への適用が憲法17条に違反すると主張しながら(争点3)、当時の各厚生大臣が、旧優生保護法制定の1948年7月13日から本件優生手術を防止することを怠ったことの違法性を主張し、国賠法1条1項に基づき損害賠償を求めた(争点2)(この他、損害額に関する「争点4」がある)。
Ⅱ 判決の要旨
原告らの請求棄却(以下では、主要論点のみ提示)。
1.「本件立法不作為」又は「本件施策不作為」に基づく損害賠償請求権の成否(争点1)
(1)本件規定の違憲性
「人が幸福を追求しようとする権利の重みは、たとえその者が心身にいかなる障がいを背負う場合であっても何ら変わるものではない。子を産み育てるかどうかを意思決定する権利は、これを希望する者にとって幸福の源泉となり得ることなどに鑑みると、人格的生存の根源に関わるものであり、上記の幸福追求権を保障する憲法13条の法意に照らし、人格権の一内容を構成する権利として尊重されるべきものである」。「しかしながら、旧優生保護法は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するなどという理由で不妊手術を強制し、子を産み育てる意思を有していた者にとってその幸福の可能性を一方的に奪い去り、個人の尊厳を踏みにじるものであって、誠に悲惨というほかない。何人にとっても、リプロダクティブ権を奪うことが許されないのはいうまでもなく、本件規定に合理性があるというのは困難である」。「そうすると、本件規定は、憲法13条に違反し、無効である」。
(2)除斥期間による賠償請求権の消滅に関する「特別の事情」を理由とした立法措置を執ることの「必要不可欠」性と「明白」性
Ⅲ 検 討
1. 憲法上の権利から考える
(1)憲法13条とリプロダクティブ権
本件では「子を産み育てるかどうかを意思決定する権利」を「人格的生存の根源に関わるもの」であり、「幸福追求権を保障する憲法13条の法意に照らし、人格権の一内容を構成する権利」であるとする。そして、「リプロダクティブ権を奪うことが許されないのはいうまでもなく」、旧優生保護法第2章、第4章及び第5章の各規定は憲法13条に違反し、無効であるとする。
本件のような問題を検討するにあたり、「子を産み育てるかどうかを意思決定する権利」や「リプロダクティブ権」といった概念を持ち出すこと自体に違和感はない。生殖機能の停止に特化した手術になれば、単に同意のない身体侵襲とは異なり、「生殖(リプロダクション)」に関する侵襲であることに目が向く。こうした「生殖」に関する機能が、自らの同意なく人為的に奪われたことを憲法13条違反であるとする判断は、当然のように思われる。
(2)憲法と「人としての尊厳」の侵害
もっとも、この議論についてある論者は、「本件の事案は、リプロダクティブ権の侵害というだけで評価しつくせるものではない※3」とする。この論者によれば、本件で注目すべきは、優生思想の下で生殖機能が一方的に奪われ、それにより優生思想を社会に深く浸透させ、それによる差別や偏見が、当事者の「尊厳を著しく毀損」した点であり、「不妊手術は、旧優生保護法の下で生じた、重大ではあるが一つの侵害であり、被害の本筋は、人としての尊厳に対する毀損であったとみるべきであろう※4」とする。
たしかにこうした見方は、本件で重要な意味をもつ。同論者が同論稿の註で触れるハンセン病者の隔離政策をめぐる熊本地裁判決※5では、その隔離政策による人権制限が、「単に居住・移転の自由の制限ということで正当には評価し尽くせず」、「人として当然に持っているはずの人生のありとあらゆる発展可能性が大きく損なわれる」という視点から「より広く憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対する」制限であると判示される。
この点について本判決も、「子を産み育てる意思を有していた者にとってその幸福の可能性を一方的に奪い去り、個人の尊厳を踏みにじるもの」とか、「一生涯にわたり救いなく心身ともに苦痛を被り続ける」といった評価はするものの、奪われている権利の範疇につき、リプロダクティブ権を超えた、より広範な人格権として捉えているか否かは自明でない。差別と偏見による人の尊厳の毀損をめぐる問題は、憲法13条の問題なのか、それとも憲法14条1項の問題なのかという議論はあるものの、奪われている権利の実質性をついた侵害利益を適切に捉え、それをいかなる法的主張の枠組みにおいて展開するのかを考えることは、本件の解決における重要な課題でもある(なお、このことが、以降の争点理解にも関係することを述べておきたい)。
2.本件訴訟における原告の主張枠組みから考える
(1)主張枠組み
本件で原告らが優生手術を受けたのは、60歳代の女性が15歳の時、70歳代の女性が16歳の時である。上述のとおり、裁判所は、彼女らの強制手術の原因となる旧優生保護法の規定を違憲であるとしたことから、本件優生手術を受けた者のリプロダクティブ権の侵害を理由とした国賠法1条1項に基づく国等への賠償請求の可能性についても論じる。しかし、そこで問題を複雑にするのが、国賠法4条の規定による民法724条後段の規定に基づく賠償請求権の消滅をめぐる問題である(そうだからこそ、本件では、リプロダクティブ権を理由とする国賠法上の賠償請求に関して、除斥期間を本件に適用すること(等)の違憲性論も展開されることになる)。
除斥期間の起算点を本件施術時と考えるならば、彼女らの施術からは、1996年までで考えてみても20年以上が経過している。そうであるがゆえに、本件の主位的請求では、(違憲な法律の適用に関する国賠法上の違法性というよりも)旧優生保護法が1996年の母体保護法へと改正された後、2004年に当時の厚生労働大臣が立法を含めた救済を行うべき国の責務の存在を認識しながら、その後も国会がそれを実施可能とする損害賠償請求権を行使する立法措置を執らなかったこと(立法不作為)をめぐって賠償請求する法的主張となっている。
(2)除斥期間をすぎた場合の「特別の規定」の制定可能性
以上の原告による法的主張の構成に関して裁判所は、その枠組みに則った審査を行っている。具体的には、(施術時を基準とすれば)除斥期間により損害賠償請求権が消滅するから、「上記の者は、特別の規定が設けられない限り」この国賠請求ができないとする。しかし、郵便法違憲最高裁判決※6からすれば、憲法17条は、国家賠償請求権の制度設計について立法府に完全なる白紙委任を認めるものではない。そこで、「特別の規定」の制定可能性の議論へと向かう(この点、裁判所は、「除斥期間の規定を前提としても、原告主張に係る被害の回復を全面的に否定することは、憲法13条及び憲法17条の法意に照らし、是認されるべきものではな」いとするように、除斥期間を本件に適用したとしても保障のための「特別な規定」の制定可能性を論じたことで、上記「争点3」に見られる、除斥期間規定自体あるいは同規定の本件への適用をめぐり合憲論を展開する※7)。
(3)立法措置の「必要不可欠」性の肯定
以上をもとに裁判所は、従来のリプロダクティブ権やそれにまつわる「事情の下においては、本件優生手術を受けた者が、本件優生手術の時から20年経過する前にリプロダクティブ権侵害に基づく損害賠償請求権を行使することは、現実的には困難であったと評価するのが相当である」とし、施術から20年以内に原告らが法的アクションを起こすことは難しかったということで、「特別の事情」の存在を認める。そこで、「本件優生手術を受けた者が除斥期間の規定の適用によりリプロダクティブ権侵害に基づく損害賠償請求権を行使することができなくなった場合」に、「上記の特別の事情の下」での「その権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ること」の「必要不可欠」性を認めるのである。
(4)国会にとっての「明白」性の否定
他方で、裁判所は、立法不作為が国賠法1条1項の規定の適用上の違法の評価がなされる場合として、先例を参照しながら「必要不可欠」の「明白」性があるか否かの審査に向かう。
これにより、「立法措置を執る場合において、いかなる要件でいかなる額を賠償するのが適切であるかなどについては、憲法13条及び憲法17条の法意から憲法上一義的に定まるものではなく、憲法秩序の下における司法権と立法権との関係に照らすと、その具体的な賠償制度の構築は、第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられている事柄である」とし、「我が国においてはリプロダクティブ権をめぐる法的議論の蓄積が少なく本件規定及び本件立法不作為につき憲法違反の問題が生ずるとの司法判断が今までされてこなかったことが認められ」ることから「このような事情の下においては、少なくとも現時点では、上記のような立法措置を執ることが必要不可欠であることが、国会にとって明白であったということは困難である」というのである。
ここでは、結果的に国会にとっての「明白」性が判断を分けるメルクマールとなっているが、この「明白」性について裁判所は、厳しく対応したようにも見受けられる。例えば裁判所は、「我が国においてはリプロダクティブ権をめぐる法的議論の蓄積が少な」いとするが、立法府、司法府との間で対話的議論ができていたかどうかは別としても、「リプロダクティブ権」(あるいは、生殖機能を一方的に潜脱されるということが同権利といかなる関係になるのかという点)の議論は、平成期の早い段階からすでに一定の議論が示されていたと考えられる※8(もっともそうした学説の展開について参照される形跡はない)。その点は、存在する学説の動向等に、もう少し敏感でよいのではないか。
さらに、原告らが手術を受けた時期は、1975年より前にはなることから、裁判所がいうように「本件優生手術を受けた者が、本件優生手術の時から20年経過する前にリプロダクティブ権侵害に基づく損害賠償請求権を行使することは、現実的には困難であった」のかもしれない。しかし、法改正のあった1996年以降、2004年には厚生労働大臣の発言等があることを考えると、一定の憲法違反の認識が長いこと見られる。それからだいぶ経た現時点で、「その権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であることが明白であったとはいえない」というのは、「具体的な賠償制度の構築は、第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねられている事柄」だとしても、違憲的立法の廃止を目の前に、あまりにもナイーブな認識にはならないか。
この点、たしかに除斥期間を過ぎた(可能性の高い)賠償請求を実施するための一定の立法措置を長年していないことを法的に断罪する場合、裁判所によるその認定はなかなか厳しいことが予想される。とはいえ、裁判所による本件のようなこの辺りのロジックは、「明白」性については初めから認めないことを前提に仕立てられたものだと思われてもしかたない。このように憲法違反とされた法律を前にして同様の議論の応酬を続けるならば、同類の問題が今後生じても、司法権にとっては、永久にその「明白」性を示すことが難しくなるのではないか。損害賠償請求権を確保する立法措置の立法不作為の違法性を確保することは、この議論の枠組みでは、結局、司法による違法性確保は難しく、政治判断頼みになっていく可能性がある。
3.本件訴訟における権利侵害の起算点をめぐる問題提起から考える
それでは、本件のような事例において司法救済に期待する道筋は途絶えてしまうのか。
この点に関して、上記1.(2)で見たように、本件をめぐっては、一回的な不妊手術で侵害された権利として「リプロダクティブ権」を強調するのではなく、1996年法改正を経た後も明示的謝罪や反省もなく、今なお残存する優性思想や偏見から生じる被害者の苦痛に関する「人としての尊厳」に対する継続的、累積的侵害への視線を重くすべきとする主張があることを想起したい。
この考え方によれば、「人としての尊厳にかかわる侵害は…時効・除斥を論じる前提に欠けるか、あるいは、本年4月の「救済法」制定および内閣総理大臣ほかの談話までは続いていたとみるべき※9」とされる。こうした権利侵害の捉え方を前提とすれば、本件で原告も裁判所も前提とする除斥期間による権利の消滅を前提とする議論ではなく、ほんの最近まで、あるいはまだ現在も続いているかもしれない「人としての尊厳」侵害をめぐる違憲、違法論へと転回し、それについて端的に賠償請求できる可能性があるかもしれない。そうした考え方を司法府が採用する保障はないものの、本件のような問題の司法救済の手法としては、より端的で認められやすいロジックであるし、またわかりやすいように感じられる。そして、なによりも、国家により違憲、違法な状態が長年放置し続けられてきたことを浮き立たせる効果を併せ持つ。
いずれにしても、本件のような当事者が奪われた実質的権利の内容はどのようなものかという点を、より意識した司法判断を、今後、期待したい。
(掲載日 2019年11月28日)