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判例コラム
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第42回 日本の民主主義がどちらに転ぶかの重大な一年

早稲田大学大学院法務研究科(法科大学院)教授
弁護士 浜辺 陽一郎

2008年は大変な一年だった。2009年もまた大変な年になりそうだ。政治もそうだろうが、司法もそうである。今年5月に裁判員制度が施行される予定であるからだ。

裁判員制度に対しては、まだまだ反対も根強く、「国民は実施を求めていない」といった一部キャンペーンもある。しかし、裁判員制度がどうなるかは、どちらに進むにせよ、日本の民主主義の動向を左右するだろう。というよりも、日本の民主主義の試金石となる重大な局面だ。

もとより、最初から完全な、理想的な制度を望んでも、現実的ではない。一般市民が司法に参加するなどということは、そう簡単に許されるようなことではない。理想的な国民参加制度を待っていたら、恐らく100年待っても何も動かないだろう。それを極めて現実的な手法で風穴を開けようとしているのが、この裁判員制度なのだ。

確かに、新しくできた制度は、多くの「欠陥」がある。現在の裁判員制度は、裁判員の秘密保持義務とか、いろいろな問題があって、多くの問題をはらむ。それらは改善していくべきだ。その意味では、国民にとっては極めて不利なスタートである。

しかし、それは仕方がない。日本では、この種の制度は、欠陥なくして導入させてはもらえなかったというのが現実だ。多くの国民が理想とするような参加制度をいくら提唱しても、そんな制度は最初から潰されてしまう。それなりの実績がなければ、市民が本来、参加したい裁判をやらせてはもらえないのである。そのための実績作りと国民の意識を高めるためのプロセスとして、今年5月からの裁判員制度で国民が試されるのだ。

裁判員制度の意義・目的は既に語り尽くされているが、もう一度、その民主的意義に絞って確認しておこう。裁判員制度では、一般人が裁判員に参加する負担に目が行きがちであるが、それ以上に弁護士、検察官、裁判官に大きな負担がかかる。というのも、弁護士、検察官、裁判官は、一般の裁判員にも理解できるように裁判のやり方を大幅に見直すことが求められるようになるからだ。説得力も必要であるし、公正さも、今以上にはっきりと示すことができなくてはならない。裁判員は、そうしたプロの弁護士、検察官の仕事をじっくりと見て、またプロの裁判官が仕切ってくれるのに乗っていればいいのだ。これを仕切る裁判官も、一般人の目が入ることによって、緊張感が高まる。

つまり、裁判員制度の本質は、法律のプロ、専門家の仕事を、一般人が吟味するプロセスが入ることによって、訴訟制度に民主的なチェックを及ぼそうとするものなのだ。裁判員制度をじっくりと育て、改善し、拡大していくことが、民主主義を根付かせようという国民全体にとって、必ずや良い結果をもたらすはずだ。

もしも、これが失敗に終わり、制度が尻すぼみになっていけば、二度と日本の司法に民主的な制度が実現することはないだろう。日本国民には、司法への参加は無理だということが公に証明されたものとして、リーガルマインドも低い意識のままに留めおかれることになるだろう。一部の権力者層には、国民の不評の下に、これをまんまと葬り去ろうとしている思惑があることも知っておく必要がある。「こんな制度はいらない」という国民は、残念ながら、そういう罠にまんまとひっかかっているとしかいいようがない。
しかし、裁判員制度において日本人の民度の高さが立証され、「司法の民主化も悪くないね」ということになれば、次のステップが開けてくるはずだ。そうした民主的な社会に進むのか、それとも、昔ながらの「お任せ社会」に戻っていくのか。

昨今の格差社会だの、二極化だのといった政治不信の話は、そこら中に満ちている。これは民主主義の問題と無関係ではない。それでは、自分たちの社会をどうやって改善していくというのか。その戦略を、市民はまだ持ち得ていない。裁判員制度が成功するかどうかは、そんな日本人の政治意識を問う大きな歴史の曲がり角なのである。

(掲載日 2009年1月5日)

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