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判例コラム
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第67回 教員と学生の微妙な関係
~人権を蹂躙しなければいいというわけじゃない

青山学院大学法務研究科特任教授
弁護士法人早稲田大学リーガルクリニック 弁護士 浜辺 陽一郎

教員には、本当に人格者の方もいて、そうした方たちにとっては無縁の問題なのだろうが、あまり人格者とはいえない教員も少なくないようである。近時はセクハラやアカハラとして厳しく処断されるようなことが、かつてはまかり通っていたといったような話を耳にする。一部の旧態然とした学校は別として、多くの学校はセクハラやアカハラの防止に取り組んでいるから、教員が学生の人権を蹂躙するような事態は減っているはずである。

しかし、他面において教員の学生に対する指導が難しくなったという声も聞かれる。競争に弱いとか、精神的に未熟な学生が増えているとか、教員が親身になって学生の是正すべき点を厳しく指導すると、学生が精神的に追い詰められたり、逆上したりするケースが増えているというのである。中央大教授刺殺事件は、こうした現代の教員と学生の関係における関係の危うさを露呈した。

確かに、一部にかなり対応の難しい学生がいることから、教員の中には、なるべく学生と深く関わらないとか、少なくとも学生を厳しく指導することはしないとか、学生が改めるべき問題をいちいち指摘することをしないと公言する教員もいる。これは、保身のための責任放棄と聞こえなくもない。「自分の身を危うくしてまで、学生を指導する必要はない」というのは、寂しい話である。また、大学には研究者としての仕事を中心に考え、教育にエネルギーを注ぐことに消極的な教師にとっては、学生とは深く交わらないようにするための、ちょうど良い口実にもなってしまう。少数の優秀な学生とは深い関係を持つが、それ以外の学生とはそこそこに対応し、放っておくという折衷的な考え方もある。かなり現実的な処世術なのかもしれないが、それで見放された学生は、自業自得とはいえ、それが本来のあり方なのだろうか。教員の学生に対する思いというのは伝わりにくいし、学生がそれを正しく受け取ってくれるケースばかりではない。それこそ、そこには「バカの壁」があるのだろう。

ただ、学生の人格にまで踏み込んで指導するということは良くないことなのだろうか。教育現場でも遠慮がちな風潮が強まることは、決してお互いにとって幸福なことではない。 「恩師」という言葉はどこへ行ったのか。これは、学生の側が自然とそのように感じるものであって、教師が押し付けるものではない。自然とそうなっていく師弟関係というのは、双方がかなり真剣につきあわなければ生じないだろう。そんなに難しく考えなくても、自然にそうなるのが本物なのだろうが、学生を相手にしていると、自分の接し方に不足はないのか、試行錯誤の連続である。

(掲載日 2009年7月13日)

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