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早稲田大学大学院法務研究科教授
道垣内 正人
最近になって、ハーグ国際私法会議で1980年に採択された「子の奪取(child abduction)に関する条約を日本も批准すべきだという議論が盛んになっている。「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」というこの条約は、夫婦・元夫婦等の間の子供の取り合いの争いの中で、国境を越えて子供が連れ去られてしまった場合であって、それが子供の常居所地法上の監護権を侵害するものであるときには、速やかにその所在を探し、もといた国へ連れ戻すことを主な内容とするものである。
適用対象となるのは、日々成長し、順応性が高い16歳未満の子供であり、実力行使により他の国に連れ出されてしまうと、その新しい環境にあっという間に適応してしまい、かつて話していた言語さえも忘れてしまうことから、連れ戻しのため裁判をした上で元に戻すという方法では、それが法律上は正当な監護権者のもとへ戻す場合であっても、子供に大きなストレスを与えてしまう。そこで、現状復帰を第一とし、元に戻した上で、裁判によりどちらが監護権を持つべきか、面接交渉権を与えるか否か等を判断することとしているのである。
条約の仕組みは、①各締約国が条約実施の責任主体となる「中央当局」を指定しておき、連れ戻しを求める者が自国の中央当局に申立てをすれば、子供が所在すると思われる国の中央当局に連絡する、②連絡を受けた中央当局は自ら又は第三者を通じて子供の所在を発見する措置をとるとともに、必要があれば、子供の返還の実現のために司法的・行政的手段を含む措置をとる、③締約国の司法・行政機関は、連れ去りから1年以内であれば、原則としてその子供の即時返還を命じなければならない、概ね以上の通りである。
この条約の締約国は81か国に及ぶ。非締約国である日本でも、外国から連れ去られてきた子供を外国人の親が人身保護法に基づいて子供を取り戻そうとした事例が何件か存在するが、成功例は聞かない。たとえば、最高裁の昭和60年2月26日の判決では、連れ去りから約3年後が経過し日本での生活になじんでいる等の理由で請求は認められなかった。また、最高裁は、平成5年10月19日の判決により、共同親権者間での子供の奪い去りの場合には、請求者による監護に比べて現状が子の幸福に反することが明白であることを要するとし、人身保護法による救済の途を狭めている。諸外国から日本の上記条約の批准を強く求める声が上がる所以であろう。
とはいえ、日本法の専門家から見ると、この条約の国内実施は容易ではない。国内における子供の奪い去り事案に対しては「中央当局」は機能しないのに、なぜ国外からの連れ去りには対応するのか、具体的にどの機関が中央当局となるのか、実効的な子供の連れ戻しを可能とする手続を構築することはできるのか、等々の問題をクリアしなければならない。
他方、法律の専門家ではない人々からの素朴な声として、外国におけるドメスティック・バイオレンスから逃れてやっと日本に戻ってきた親子を引き離し、子供を外国に戻してしまうのはひどいではないかとの反論がある。しかし、この点は、条約上も、子供の身体・精神に危害を加える等の許し難い状況に子供が置かれる重大な危険があれば連れ戻し義務はないとされている。
とはいうものの、日本の一般の人たちは国際結婚からは無縁であり、それらの人が想像できるのは、せいぜい、このように日本に戻ってきた親子のことであり、その親から子供が連れ戻される姿であろう。これとは逆の事例、すなわち、日本から外国人の親が子供を無断で連れ去ってしまった場合にその子供を連れ戻すために苦労する親の状況にまではなかなか思いを致すことはできない。そして、国会はそのような想像力の人たちが大多数を占めている。その中で、全体を見渡せば、相対的に多くの子供たちの福祉のためになると思われる条約の批准に踏み出すことができるかどうか、ここ暫くの議論の展開に注目していきたい。
(掲載日 2010年1月4日)