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判例コラム
(旧)コラム

 

第142回 ヒトラー展にみる国家の罪と国民

東海大学教授
西山 由美

先日、ベルリン出張から戻った友人から、「期間延長のおかげで、ヒトラー展を観ることができた」と同展のパンフレットをお土産にもらった。ベルリンのドイツ歴史博物館で昨年の10月15日から始まったヒトラー展(正式なタイトルは「ヒトラーとドイツ人―民族共同体と犯罪」)には、約25万人が訪れ、予定より3週間延長して先日2月27日に閉幕した。ただし、「好評につき延長」と大々的に宣伝できるテーマでないため、友人も新聞での控えめの報道で延長を知ったという。

ナチスドイツの崩壊と敗戦から65年を経て、タイトルに「ヒトラー」の個人名を掲げた初めての大規模な企画展は、政治的にも社会的にもリスクの高いものであった。ユダヤ人団体からの抗議は当然予想されたし、ネオナチにとってはヒトラー崇拝の格好の機会となるからだ。パンフレットの巻頭において同博物館館長は、この企画展の動機を次のように述べている。「当館を訪れる若者の80パーセント以上が、ドイツの歴史の最も暗黒であった時代を深く掘り下げた企画展を望んでいた」。また、企画担当の三人の歴史学者らはその企画目的について、「ヒトラーが雑誌やインターネット上など、さまざまな形でなおも生き続けている限りにおいて、我々ドイツ人はこの大罪から逃れることができない。今回の企画は、ヒトラー個人というより、国民はヒトラーの中に何を見ていたのか、なぜ国民はヒトラーに協力し、その犯罪を正当化し、自らもまたそれに手を染めたのか、ということに焦点を当てたのである。」と説明する。

このような企画趣旨は、パンフレットの表紙の3枚の写真によく表れている。一枚目は、ナチス大会で民衆と握手するヒトラーに興奮して大歓声を上げる大群衆、二枚目は、「私は民族共同体から排除された人間です」というプラカードを首からぶら下げて公道でさらしものにされている女性の横を、遠巻きに冷やかに通り過ぎる人々(彼女に視線を向けている通行人は一人もいない。) 、三枚目は、爆撃で燃えさかる建物を呆然と見つめる市民の後ろ姿。独裁者の魅惑的な言葉に熱狂し、不都合なことは聞かなかったこと見なかったこととし、結局は大切なものを失っていく国民は、国家的犯罪や政策失敗の被害者なのか、加害者なのか。そのいずれでもあろうと、その責めと不利益を長きにわたって負わなければならないなら、それを回避するために国民はどのような行動をとるべきなのだろうか。異なる立場への寛容、そして耳触りの良い説明をそのまま鵜呑みにしない想像力、であろうか。

本コラムを書き上げてまもなくベルリンに行く筆者は、わずかの差でこの企画展を見ることができない。しかし、さまざまな年代の人たちから感想や意見を聞き、この企画展の社会的影響を確認してみたいと思う。

(掲載日 2011年3月14日)

次回のコラムは3月28日(月)に掲載いたします。

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