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判例コラム
(旧)コラム

 

第156回 「ボーン・デジタル」あるいはロー・ライブラリーの終焉!?

成城大学教授
指宿 信

2011年6月16日、ハーバード・ロースクールのバークマン・センターにおいて、デジタル時代のロー・ライブラリーについて考えるシンポジウムが開催された。「将来のロー・ライブラリー:将来は今?」と題されたプログラム※1は、多くの法情報が電子化されていく今日の法情報環境の変容に、ロー・ライブラリー(ロースクール図書館)関係者が抱いている危機感の現れといっていいだろう。

わが国でも、法科大学院の開始は法学教育に革命的ともいえる程のデジタル化環境をもたらすこととなった。判例から文献に至るまで多くの法情報コンテンツがオンラインで提供される時代となり、院生たちは図書館の机ではなく個人用キャレルに置かれたパソコンにかじりつくようになっている。これまでの教科書・六法・判例教材の3点セットに加え、シラバス・パワーポイント・データベースという新たな三種の神器が法学教育を席巻することとなった。

このコラムを使ってわたしも米国を中心とする法情報のデジタル化についていろいろな話題を提供してきたが、米国が専門職大学院の母国であるだけでなく、法情報の電子化の点でも先駆的であったことは読者なら先刻ご承知であろう。それだけに、米国では、ロースクールの研究・教育の中核的存在であったライブラリーの「生き残り」が真剣に議論され始めている。あらゆる法情報が電子化されようとしている今日、ライブラリーとは、教育・研究にとっていかなる「場所」なのか、そしていかなる「機能」を担うべきなのか、といった根源的な問いが突きつけられているのである。

米国では、判例や法令といった多くの一次的法情報は紙ではなくデジタル資料として最初から提供される、「ボーン・デジタル」な法情報環境が行き渡っている。そればかりか、既にオンラインでの学びだけでも法学の学位を取得できるロースクールの登場※2に象徴されるように、教育や研究のデジタル化は著しいスピードで進んでいる。法学系教員のブログはたいへんな興隆を見せているし※3、法学紀要のオンライン化も標準化され始め※4、法情報へのオープン・アクセスの波は各ロースクールを覆っている。わが国ですら、法学紀要も次第にリポジトリ化され過去の古い論文をPDFで読むことができるようになり、大学外からも自由に利用できるようになっている。

こうして、24時間の、場所的制約のない自由な法情報へのオンラインにおけるアクセスは夢の法情報環境の実現である。そのことは場所やコストのかかるロー・ライブラリーの終焉を意味するのだろうか? はたまたそこで働くライブラリアンたちも不要となるのだろうか?

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この問いは、法科大学院だけでなく、法学部教育も依然として併存させている我が国の法学教育にとっても同様に深刻な問いとして受け止められるべきである。もちろん、ロー・ライブラリーを法科大学院生の「勉強部屋」程度にしか位置付けず、専門的なスタッフも雇用せず、選書方針も蔵書戦略も持とうとしない大学にはこうした問いは不要であって意味をなさないことは言うまでもないが。

では、米国の専門職であるロー・ライブラリアンたちはどのように考えているのであろうか。冒頭から示してきたロー・ライブラリーを飲み込もうとするデジタル化の流れに抗して、ダーラム宣言※5に深く関わったデューク大学のリチャード・ダンナーは、ロー・ライブラリーが、自宅・自室、研究室・教室に続く、第三の重要な、公共性を持った「場所」であることを強調する※6

すなわち、ライブラリーとは単に情報へアクセスするためだけに存在するのではなく、教育や研究の一端を担い、次の世代に貴重な法情報(とりわけ紙媒体の資料)をバトンタッチしていく役割を担っている。具体的には、学生院生に調べ方をレクチャーし、教員の調査や研究をアシストし、資料の収集保管の責任を持っている。すなわち、アーキテクチャーとしても、情報管理システムとしても、アーカイブとしても、あるいはリサーチ・アシスタントとしても、法学研究・教育に不可欠な存在であるはずである。

ハーバード・ロースクールのライブラリアン、ジョン・パルフレイは、ライブラリーの「場所」的な側面ではなく、デジタル化時代のロー・ライブラリーのサバイバルに不可欠な要素として、よりそのソフト面を強調する※7。すなわち、今日の法学研究が学際的、分野融合的におこなわれる傾向が強いため、歴史、経済、哲学、人文科学等の資料収集や調査についても精通していなければならず、それは純粋に法学教育だけを受けてきた教員では困難な仕事であり、ライブラリアンがそうした支援をおこなわなければならないこと、デジタル資料と紙資料の双方の実態と進化の把握・予測をライブラリアンが担い、その収集や管理面でバランスのとれた戦略を構築できなければならないこと、がその理由である。

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このような資質を有するライブラリアンを抱える米国のロースクールであれば、首尾良くいけば、法情報のボーン・デジタル時代にもロー・ライブラリーを退化させることなく、教育研究を機能的に発展させていくことが可能だろう。
翻って日本はどうだろうか。

たとえば、ロー・ライブラリーにかかわる法科大学院の認証評価機関の基準を参照しても、学習設備としての図書整備には言及されていてもスタッフの資質が具体的に示されてはいないし、選書方針や年間予算などについての基準は置かれていない。もちろん、デジタル時代に対応したライブラリーの機能であるとか、戦略的な見通しの有無を評価するような視点も存在しない※8

かりに、ライブラリー自身においてこうした諸課題を担うことができないとすれば、それらは教育研究体制の責任を負う教授会に委ねられていると言うほかないだろう。50年後、100年後の法学研究者がライブラリーを覗いたとき(もしもその時代にも存在しているとすればの話しだが)、いまの時代をどのように評することになるだろうか。しばし想像してみるのも悪くない。

(掲載日 2011年7月11日)

次回のコラムは7月25日(月)に掲載いたします。

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