ウエストロー・ジャパン
閉じる
判例コラム

便利なオンライン契約
人気オプションを集めたオンライン・ショップ専用商品満載 ECサイトはこちら

判例コラム

 

第95号 職場での旧姓名の使用について 

~人格権の一内容としての氏名権に関連して~
~~東京地裁平成28年10月11日判決 氏名権侵害妨害排除等請求事件※1~~

文献番号 2017WLJCC003
専修大学法科大学院教授
弁護士 矢澤 昇治

 

《要 約》

 1 本件氏名権侵害妨害排除等請求事件判決は、個人が職場のみならず社会において、生活を送るに当たり、氏名がどのような役割を有し、法律が氏名を保護または規律するかという事柄にかかわっている。思えば、恩師中川善之助先生は、氏が「生む血」を意味するものであるといわれていた。確かに、支配者たる父系血縁集団は、血(DNA)のつながりを有する者により家を構築し、政争を繰り返してきた。中国で行われた皆殺しの刑は、家を単位とした刑罰の一例に過ぎない。わが国では、明治時代に至り、平民が苗字を公称できるようになり、壬申戸籍が編纂されるなどして、俄に、夫婦別姓、同姓の問題が顕在化するとともに、氏は、家の呼称としての性質を有することになり、戸籍編成の単位となった。第二次大戦後、旧来の家制度は日本国憲法の理念と相容れなかったことから廃止された。そして、民法学上、氏の法的性格を血縁関係から完全に離れて純粋に個人の呼称であるとする考え方が通説とされているが、未だ「氏」「家」「戸籍」などの旧態然としたものが生きながらえている。
 本件を判断するために考慮すべき分野は、多岐に及ぶ。以下では、筆者の配慮した事項を要約する。

  2 第二次世界大戦後のわが国において問題となったのは、国際結婚をした夫婦の氏である。日本国憲法により「家」制度が廃止され、氏が個人の呼称とされたにもかかわらず、渉外戸籍先例の基礎として、「家」制度の体質が存在する戸籍法の規定によ<り実体法である国際私法や民法の規定を規制する戸籍実務が履銭された。その結果、日本国民には、氏の変更禁止原則が貫かれ、日本人妻は外国人の氏を選択することができず、外国人夫が日本の戸籍に記載されることは認められなかった。かくして、日本人妻は、「呼称上の氏」と「民法上の氏」の使用を余儀なくされ、社会生活上は、ケネデー花子、戸籍上は、鈴木花子の二つの氏の使用が強制されてきたのである。この事態を克服するために、国際私法における氏名権をめぐる論争がくりひろげられている。

  3 本件では、女子差別撤廃条約の遵守がなされなければならない。第二次世界大戦の悲劇の反省から、国際連合憲章が、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認した。そして、国連経済社会理事会により設置された人権委員会及び婦人の地位委員会を中心として基本的人権の尊重、男女平等の実現について積極的な取り組みが行われ、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」(A規約)、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(B規約)、また、「婦人の参政権に関する条約」が採択された。さらに、1967年、第22回国連総会において、「女子に対する差別の撤廃に関する宣言」が採択された。さらに、より有効な措置をとるべく、婦人の地位委員会において作成され、1980年、法的拘束力を有する新たな包括的な国際文書である女子差別撤廃条約が採択され、わが国も批准した。
 この条約を管理、促進するための女子差別条約委員会は、わが国に対して、婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、夫婦の氏の選択などに関する、差別的な規定を依然として含んでいる民法の規定を廃止することを、再三再四、今日に至るまで、要請し勧告してきた。しかるに、わが国は、女子差別撤廃条約で、締約国の差別撤廃義務、条約上の権利の完全な実現を確約する規定を包含する条約に批准し、合意したにもかかわらず、最高裁大法廷2015年12月16日判決からも知り得るように、わが国の裁判所は、この35年余の間、この国際条約に無理解である。裁判所は、憲法98条2項に基づき、この条約の要請に応諾し、条約に抵触する女子の差別となるような判決を回避すべきである。

 4 本件では、私立学校における教諭の旧姓(通称)使用が問題とされているので、その比較材料として、わが国の国立大学教官が国に対し、研究教育活動や人事記録その他の文書において旧姓名を使用するよう義務付け、また、戸籍名の使用を強制されることについて損害賠償請求した訴え(いわゆる夫婦別姓訴訟、「関口訴訟」事件)が参考に資するであろう。1993年11月、東京地裁は、「個人の同一性を識別する機能において戸籍名より優れたものは存在しないものというべきであるから、公務員の同一性を把握する方法としてその氏名を戸籍名で取り扱うことは極めて合理的なことというべきである。」として、原告の国に対するいずれの訴えも却下、被告らに対する請求をいずれも棄却した。その後、本件は控訴されたが、1998年、東京高裁にて「研究・教育分野での旧姓使用を認める」という形で和解が成立した。
 この裁判では、旧姓や通称に法的保護の対象となり得る可能性がある程度認められたこと、夫婦同氏を定める民法750条が客観的合理性を有し憲法には違反しないという判断がなされたこと、さらに、戸籍名で公務員の氏名を取り扱うことの合理性が認められた点などにおいて注目された。そして、本判決は、その後の旧姓使用や夫婦別姓の議論に大きな影響を与えることになる。また、関口訴訟以後、職場における、旧姓名の使用については、多くの国公立大学、東京都などの多くの団体と組織の就業規則において、その使用を認める内容の規定が盛り込まれる契機にもなった。

 5 わが国の判例において、「氏名を正確に呼称される利益」が人格権の一内容を構成するとしたのは、最高裁第三小法廷1988年2月16日判決である。本件では、戸籍上の氏や旧姓名の使用が問題となったものではなく、氏名を正確に呼称される利益が評価の対象とされた判決である。最高歳は、一般論として、「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。」と述べ、専用権としての氏名権の存在を肯定した。

  6 女子差別撤廃条約の圧力も受けて、日本政府は、男女共同参画型社会の建設を目標として設定し、また、家族法の婚姻、離婚、親子に関する民法改正を提起し、法制審議会は、1991年1月以降、現行家族法の見直しを進めてきた。1996年2月で答申された、「民法の一部を改正する法律案要綱」の主な内容は、再婚禁止期間の廃止、選択的夫婦別氏制度を導入すること、男女の婚姻適齢を満18歳に統一することを求めることであるが、その実現の目途すら立たない状況にある。立法の怠慢であり、それに胡座をかいている司法がある。

  7 最高裁は、2015年12月16日大法廷判決で夫婦別姓制について憲法判断をした。最高裁大法廷判決は、憲法13条に基づき、婚姻の際に「氏を強制されない自由」が人格権の一内容を構成することを肯定したが、岡部喜代子裁判官により指摘される多数意見の夫婦同姓制にかかる憲法24条の解釈は、「社会の構成要素である家族の呼称としての意義があるとの理解を示しているものといえる。そして、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる。」、「氏に、名とは切り離された存在として社会の構成要素である家族の呼称としての意義がある」とし、「現行の法制度の下における氏の性質等に鑑みると、婚姻の際に『氏の変更を強制されない自由』が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない。本件規定は、憲法13条に違反するものではない。」とし、また、憲法14条1項の違反については、「本件規定は、夫婦が夫又は妻の氏を称するものとしており、夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねているのであって、その文言上性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではなく、本件規定の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない。」、「したがって、本件規定は、憲法14条1項に違反するものではない。」とした。

 8 最高裁大法廷判決における、岡部喜代子裁判官による反対意見には、「近年女性の社会進出は著しく進んでいる。婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく、婚姻後に稼働する女性も増加した。」、また、「氏の第一義的な機能が同一性識別機能であると考えられることからすれば、婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。」との下りがある。
 筆者は、氏名が、社会的に個人を他人から識別し特定を有する機能を有し、それらの氏名が単なる個人情報にすぎないとしても、それらの情報の開示を強制することはプライバシー侵害となり得る場合があると考える。すなわち、「他人に知られたくない個人情報は、それがたとえ真実であっても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成する」。そして、本件では、ある女性の非婚、婚姻、離婚、再婚という身分変動が、職場における戸籍上の氏の一律的な使用の強制による人格権侵害となり得るとともに、婚姻前の氏の使用禁止と婚姻後の氏の強制使用の結果として、プライバシー侵害問題となり得るということである。

 9 以上のことを考慮した上で、本件判決を評価すると、一言で評価すれば、既述したように時代錯誤的であり、2015年12月16日最高裁大法廷夫婦別姓制訴訟の判決も踏まえていないということができる。ここでは、2点について、言及するにとどめる。最高裁は、夫婦別姓を認めていない民法750条を「合憲」と判断するために、「婚姻前の氏の通称使用が広まることによって一定程度は緩和され得る」、また、「婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。」ことを当然の前提としたのである。であれば、下級審も、この最高裁の婚姻前の氏の通称使用にかかる認識と判断を尊重すべきであると理解する。でないとするならば、別姓制も通称使用も認められないという、いわば踏んだり蹴ったりの事態となるからである。女子差別撤廃条約16条1(g)が求めている適当な措置(選択的別姓制)の実現が達成できないとすれば、少なくとも、その緩和策たる通称使用が認められて然るべきである。
  また、被告が職場において通称使用を全面的に認めず、被告の行為をもって不法行為と認めることはできないとした、本件氏名権侵害妨害排除等請求事件判決には得心できない。さらに、判決文では、「仮に、通称として婚姻前の氏を使用する一般的な利益が法律上保護される利益に該当するのみならず人格権の一内容として保護されるものであったとしても」、職場が関わる場面で戸籍上の氏の使用を求める行為をもって、違法な人格権の侵害であると評価することはできないとした判断にも更なる疑問が生ずる。原告は、戸籍上の氏の強制的な一律使用を人格権の対象としたが、戸籍法上の氏の開示による原告のプライバシー侵害を考慮の対象とする余地があったと考える。氏は、一面、個人の呼称に過ぎないのであるが、それが戸籍制度と結び付くことによりその人の出自が露わとなり、それが公に晒されることにより、その人の身分変動とその内容も暴露される危険が大いにある。必ずしも婚姻後の氏を公にしなくとも、殊更に職場の業務遂行に支障や障害をもたらさないときには、伊藤正己裁判官の前科照会事件判決における「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許され」ないとの補足意見が想起されるのである。

(要約追加 2017年2月3日)

参照条文:「憲法」13条、24条、「民法」709条、「女子差別撤廃条約」16条(1)、24条

【目 次】

第1 事案の概要等
1 事案の概要
2 前提事実

第2 争点

第3 当事者の主張
1 被告に対して原告の婚姻前の氏を使用することを求めることの可否
2 被告による不法行為の有無
3 被告による労働契約法上の付随義務違反の有無
4 原告の損害

第4 本判決の要旨と結論

第5 予備的検討
はじめに
1 国際結婚と渉外戸籍
2 女子差別撤廃条約
3 国立大学教官の旧姓使用にかかる訴訟事件と就業規則
4 家族法改正と選択的夫婦別氏論
5 夫婦別姓制訴訟(最高裁大法廷2015年12月16日判決)
6 人格権の一内容たる旧姓名

第6 本判決の評釈

第1 事案の概要等

1 事案の概要

 本件は、被告の設置する中高一貫校の教員である原告が、業務に当たり通称として婚姻前の氏を使用することを希望したにもかかわらず、被告により戸籍上の氏を使用することを強制されたと主張して、被告に対し、人格権に基づき、時間割表等において原告の氏名として婚姻前の氏名を使用することを求めるとともに、人格権侵害の不法行為又は労働契約法上の付随義務違反による損害賠償請求権に基づき、慰謝料及び弁護士費用の合計121万円並びにこれに対する訴状送達の日の翌日である平成27年3月25日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

2 前提事実

(1)当事者等

ア 原告は、昭和○年○月○日生まれの女性であり、東京都教育委員会から平成○年3月31日に中学校教諭1種免許状(○○)及び高等学校教諭1種免許状(○○)の授与を受けた。
 原告は、○○年4月1日からは、被告の設置するa高等学校・中学校(以下、それぞれ「本件高校」、「本件中学校」といい、両者を併せて「本件学校」という。)のb科の専任教諭として勤務し、平成○年度は本件○○の○年○組の学級担任を受け持ち、本件高校において○○及び○○の、本件中学校において○○の授業を担当していた

イ 被告は、本件学校を設置して学校教育を行う学校法人である。本件学校は、男女共学の中高一貫校であり、平成27年3月の時点において、1972名の生徒(高等学校に1205名、中学校に767名)、82名の専任教諭(うち非常勤講師51名)、14名の専任事務職員(うち臨時事務職員4名)が在籍していた。

(2)事件の経緯

ア 原告の戸籍上の氏は「X」であったが、平成○年○月○日に婚姻し、戸籍上の氏を夫の氏である「A」に変更した。

イ 原告は、同月頃、本件学校の給与事務担当者に対し、上記婚姻の事実を告げた。そして、本件中学校及び本件高校の各教頭に対し、婚姻の事実を職員会議などで公表しないでほしい旨及び婚姻前の氏を通称として使用することを認めてほしい旨を申し入れたところ、同人らは、前例がないので学校長に報告し検討する旨回答した。

ウ 当時の本件学校の学校長であるC校長(以下、「C校長」という。)は、原告に対し、同年9月、慣例に基づいて婚姻前の氏の通称使用を認めるのは年度内までとすると告げた。これを受け、原告は、被告の理事長に対し、婚姻前の氏を通称として使用することを希望する旨申し出た。

エ 原告は、被告に対し、同月頃、家族住宅手当に関する異動届を提出した(なお、被告の教職員就業規則(以下、「本件就業規則」という。)9条は、教職員は、氏名、住所又は家族等の変更、異動があった場合は、速やかに届け出なければならない旨規定している。)。

(3)被告は、平成○年2月28日、平成○年度校務分掌の書類に原告の戸籍上の氏を記載し、同書類を職員会議で全教職員に配布した。

(4)原告は、被告に対し、同年3月5日、婚姻後も婚姻前の氏を通称として使用することを文書で申し出たところ、C校長は、同日、原告に対し、理事長が本件就業規則9条を根拠として通称の使用を認めないと決定したと告げた。

(5)原告は、婚姻前の氏を通称として使用することに関して労働組合の幹部に相談し、同月12日、同幹部組合員がC校長及び副校長と面談し、原告の通称使用を認めるように願い出たところ、両名は、通称使用を希望する理由及び通称を適用する範囲について書いた願書を提出すれば再検討すると回答した。
 そこで、原告は、被告に対し、同月14日、戸籍上の氏を第三者に公表されることによって、家族の有無等の個人情報がみだりに他者に知られ、私生活が乱されるおそれがあること、社会的に認知されている氏名を通称として使用できないことによって、生徒及び保護者を含めた学校関係者の信用や実績を損なうおそれがあること、研究者として一貫して用いている氏名を通称として使用できないことによって、著作者の同一性が失われること、出生とともに与えられた氏名は個人の尊厳と不可分であるので、戸籍上の氏を名乗らなくてはいけないことに精神的な負担を感じることを理由に、法令に抵触するおそれがなく、職務遂行上又は事務処理上支障がないと認められる書類等について、婚姻前の氏を通称として使用することを認めるよう願い出る願書を提出した。
 これに対し、被告は、原告に対し、同月22日、被告の教職員の教育業務の基本は法令並びに本件就業規則及び雇用契約に準拠しており、法令等に基づいた地位にある公人としての教職員の教育業務遂行には、法に基づいた呼称の使用が妥当なものと思料すること、本件学校における慣例では、年度途中で婚姻したときは、本人の希望があれば当該年度内に限り許容できるものについては婚姻前の氏を使用し、次年度以降は戸籍上の氏に切り替えていること等を理由として、同年4月1日以降、本件学校の教員として業務を行う場合及び被告の教職員として行動する際には戸籍上の氏を使用すること並びに改姓届を提出することを求める旨書面で回答示達した。
 そこで、原告は、被告に対し、同月7日、XからAに改姓した旨の改姓届を提出した。

(6)原告は、同月8日、原告代理人らを通じ、被告に対し、面談による話合いの実施を文書で求めたところ、被告は、同月16日、被告の見解は上記(5)の同年3月22日の回答示達のとおりであり、原告代理人らとの話合いの必要性はないと思料する旨回答した。

(7)〈中略〉

(8)原告は、被告を相手方として、同年6月27日、職務上通称使用することを認めることを求めて町田簡易裁判所に民事調停を申し立てた(同庁平成○年(ノ)第25号)が、同年11月7日の第2回期日において調停不成立により終了した。

(9)被告は、平成○年4月1日より、第1の1記載の各事項において、原告の氏として戸籍上の氏を使用している。原告は、同日以降も、教室内等においては婚姻前の氏を名乗っており、多くの生徒、保護者及び教職員から婚姻前の氏で呼ばれている。

▲top

第2 争点

1 被告に対して原告の婚姻前の氏を使用することを求めることの可否(争点1)

2 被告による不法行為の有無(争点2)

3 被告による労働契約法上の付随義務違反の有無(争点3)

▲top

第3 当事者の主張

1 被告に対して原告の婚姻前の氏を使用することを求めることの可否

(原告の主張)

ア 氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成する。そして、氏は、氏名の構成要素であるだけでなく、それ自体で、個人の同一性を示すものとして人格と密着しているから、氏それ自体が人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴として、人格権の一内容を構成する。したがって、そのような氏を意思に反して奪われないことが、人格権の一内容たる氏名権の中核的な権利・自由として、憲法13条により保障される。
 そして、戸籍上の氏であれ、通称としての氏であれ、氏は、一定期間使用し続けることにより、名とあいまって個人を他人から識別し特定する機能を有するようになり、同時にその個人からみれば、人が個人として尊重される基礎となり、その個人の人格の象徴となることに変わりはないから、人格権の対象となる氏とは、戸籍上の氏に限定されるものではなく、婚姻前の氏のように、人が自己を表示するものとして継続的に使用し、その個人の人格の象徴となった氏も含まれる。
 したがって、生来の氏が意思に反して奪われないこと、すなわち通称として婚姻前の氏を使用し続けることは、人格権の一内容たる氏名権の中核的な権利・自由として憲法13条により保障される。
〔注:下線による強調は、筆者、以下同様〕

イ 原告は、出生から婚姻まで、あらゆる場面において婚姻前の氏を自己の唯一の氏として使用し、自己の呼称とし続けてきたのであって、その婚姻前の氏を通称として使用する権利・自由を有する。

ウ 被告は、前提事実(4)及び(5)のとおり、原告に対し、婚姻前の氏を通称として使用することを一律に禁じ、また、前提事実(9)のとおり、第1の1記載の各事項において原告の氏として戸籍上の氏を使用しているところ、これら一連の行為は、原告の婚姻前の氏を通称として使用する権利・自由を著しく侵害する行為である。
 したがって、原告は、人格権に基づく妨害排除(予防)請求権として、上記各事項の記載を原告の婚姻前の氏に訂正することを求める権利を有する。

エ 被告は、業務上の書類等において原告につき戸籍上の氏で表記し、原告に対して戸籍上の氏の使用を求めたことについて合理性、必要性がある旨主張するが、以下のとおり、理由がない。

(ア)被告は、戸籍制度を前提とする限り、婚姻前の氏の使用の禁止はおよそ違法の評価を受け得ないと主張するようであるが、戸籍制度は、身分関係を公示する制度であり、個人の識別を目的とする制度ではなく、戸籍法は、戸籍以外の場面で戸籍上の氏を使用することを求めていない。
 そして、戸籍上の氏名と通称を区別して管理することには、一つの氏名で管理することと比して煩雑さが伴うことはそのとおりであるが、教員免許上及び生徒や保護者の認識上の氏は婚姻前の氏なのであり、いずれにせよ二つの氏の管理は必要であるので、煩雑さや取り違えの可能性等は、戸籍上の氏の使用を強制する必要性の根拠とはなり得ない。むしろ、戸籍上の氏は、被告において内部的に把握していれば十分であって、生徒や保護者が見るようなものも含めて全ての書類等において戸籍上の氏を使用することは、かえって対外的混乱を招き、煩雑さや取り違えの危険を増幅させる。

(イ)被告が婚姻前の氏を使用する原告に対して不利益処分を課していないとしても、被告が婚姻前の氏の続用を一律に禁じていることによって、原告は、耐え難い精神的苦痛を被っており、被告の取扱いが一般的に妥当な方法と程度であるとはいえない。

(ウ)被告は、戸籍上の氏の使用が慣行となっており、原告のみを不利に扱っているわけではないと主張するが、原告は、他の教職員に対する扱いとの不平等を主張しているわけではないし、婚姻前の氏の使用を希望しない者についての扱いと比較しても意味がない。

(エ)被告は、本件就業規則9条をもって戸籍上の氏の使用を強制する根拠とするようであるが、本件学校においては、給与、保険及び年金等の取扱いのために教職員の戸籍上の氏名を把握する必要は認められるところ、同条は、そのような必要性から事務手続上の届出義務のみを定めたものにすぎず、教育や研究という業務の場面で婚姻前の氏を通称として使用することを一律に禁じる趣旨まで含むものとは言い難い。

(被告の主張)

ア 原告の主張は否認ないし争う。個人を識別するものとして最も優れた機能を有するのは、戸籍上の氏であり、戸籍上の氏と異なる通称を使用したいという原告の希望は法的保護の対象となるものではなく、原告の主張するような権利は認められない。
 なお、原告は、自身が関係者から婚姻前の氏で呼ばれている点を強調するが、婚姻前の氏が広く浸透している場合にはその氏の使用が認められて、浸透していなければその使用が否定されるというように、婚姻前の氏の浸透程度によってその使用の可否が左右されるべきではないから、原告がどれほど婚姻前の氏で呼ばれていたとしても、これを通称として使用する権利が発生することはない。

イ 仮に、通称として婚姻前の氏を使用することが人格権の一内容となるとしても、以下の理由から、被告の行為は、これを違法に侵害するものとはいえない。

(ア)原告のような教職員は、多数の生徒に対し、長期間にわたり毎日のように接する職業に携わる者であり、生徒の学習、人格形成に大きな影響を与えるため、教職員の個人の特定は極めて重要であり、被告としても教職員の確実な管理及び個人の識別、特定が重要である。そして、教職員個人を識別、特定して管理するに当たって、戸籍上の氏名と通称を区別して管理したり、それらを同一人物であると把握して管理したりすることには煩雑さが伴い、取り違えが生じる可能性もあるところ、個人の同一性を識別する機能において、戸籍上の氏より優れたものは存在しないことから、迅速かつ確実に教職員個人を特定、管理するためには、戸籍上の氏に統一する必要性がある。

(イ)被告は、原告に対して、業務の必要がある場合に、戸籍上の氏を使用することを求め、又は、業務上の書類等において原告を戸籍上の氏で表記しているにすぎず、原告の精神的な自由等を否定する措置はとっていない。また、原告は、生徒、保護者及び教職員に対し、婚姻前の氏で呼ぶよう要求しているが、被告は、これに対して不利益となる処分を課すなどして戸籍上の氏の使用を強制しておらず、さらに被告は、氏の変更のあった年度内は通称使用の継続を認めるという措置を講じている。このように、被告の取扱いは極めて穏当であり、一般的に妥当な方法と程度である。

(ウ)被告はこれまで、戸籍上の氏を変更した年度内は通称の使用を認め、次年度以降は戸籍上の氏を使用する取扱いを長年にわたり例外なく継続しており、このことは、平成○年4月1日から被告で勤務している原告も知悉していることである。被告は、上記の慣行に従った平等な取扱いをしており、原告を不利に扱っているわけではない。

(エ)本件就業規則9条は氏名の変更を届け出る旨規定しているが、これは、被告の業務遂行にとって教職員個人の特定・管理が必要であることから設けられた規定であり、届出がされた場合は、届出がされた氏名に従って表記・呼称することが当然に予定されているものであり、被告が原告に対し、戸籍上の氏の使用を求めたことは、本件就業規則9条に基づく措置である。

2 被告による不法行為の有無

(原告の主張)

ア 上記(1)の(原告の主張) ウのとおり、被告の一連の行為は原告の婚姻前の氏を通称として使用する権利・自由を著しく侵害する行為であるから、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償請求権を有する(仮に、通称として婚姻前の氏を使用することが人格権として保障されるとまではいえないとしても、これまでの生来の氏である婚姻前の氏を通称として使用する利益は、私法上保護すべき法益である。)。

イ 被告は、業務上の書類等において原告につき戸籍上の氏で表記し、原告に対して戸籍上の氏の使用を求めたことについて合理性、必要性がある旨主張するが、その主張に理由がないことは、上記(1)の(原告の主張)エのとおりである。

(被告の主張)

ア 個人を識別するものとして最も優れた機能を有するのは戸籍上の氏であるから、これと異なる氏を使用したいという原告の希望は、法的保護の対象となるものではない。したがって、被告について不法行為は成立しない。

イ 仮に、通称として婚姻前の氏を使用することにつき法律上の利益が認められるとしても、被告の行為がこれを違法に侵害するものではないことは、上記(1)の(被告の主張)イのとおりである。

3 被告による労働契約法上の付随義務違反の有無

(原告の主張)

ア 被告は、原告の使用者として、原告に対する人格や自由に対する拘束を事業遂行上必要かつ相当な範囲内でのみ例外的に行い、そのような範囲を超えた支配や拘束を行わないように配慮すべき義務(労働契約法上の付随義務としての原告の人格的利益を保護し尊重すべき義務)を負う。

イ 被告は、原告に対し、前提事実(4)及び(5)のとおり、何ら正当な理由を示さず、平成○年3月5日、通称使用を認めない旨回答し、同月22日、被告の教員としての業務を行う際に通称(婚姻前の氏)でなく戸籍上の氏を使用するようにとの指示命令を行い、同年4月以降、本件学校の業務において婚姻前の氏を使用することを一律に禁止し、戸籍上の氏を使用することを強制したものであり、これら被告の一連の行為は業務命令に該当する。

ウ (ア) 被告においては、原告の本来的労務である教育、研究、生徒指導等の本質的業務については、労働契約上特段の明記がなくても、業務命令による指示、命令をすることが許容されると解釈することができるとしても、上記イの呼称についての指示命令は、原告の労務内容、性質とは直接関連性を有しないものであり、当然にはそのような業務命令を発する使用者の権限を導くことはできず、本件においては、その法的根拠は不明である。

(イ) また、本件は、個人のアイデンティティの根幹をなす人格的利益が問題となっているものであり、さらに、原告においては、婚姻の事実というプライバシーに関わる事情が生徒及び保護者に明らかになったり、事情により婚姻前の氏を使用できないと生徒や保護者に説明することを要したり、ときには理由を詮索されたり、からかわれることがあるほか、通称使用の希望について批判的に捉えられることも少なくないなど、大きな精神的苦痛が生じている。
 業務命令は、労働者の権利を不当に侵害するものであってはならず、上記の事情に照らせば、原告に与える不利益性を上回る、高度な必要性、合理性が存在することを要する。
 しかるに、本件における被告の業務命令は、業務上の呼称に関するものであり、原告の○○教諭としての労働の本旨の提供との関連性は皆無であるほか、教職員という職業領域は一般的に婚姻前の氏の通称使用が広く採用されており、他の学校でもそれによる混乱が生じたとの報告はないこと、平成○年○月から平成○年3月まで原告が婚姻前の氏を使用しても混乱は生じず、生徒、保護者及び教職員は原告を婚姻前の氏で呼び続けていること、原告の教員免許状上の氏は婚姻前の氏であり、教員資格との同一性維持のためには、むしろ婚姻前の氏を使用する方が優れていること、原告は婚姻前の氏の使用について強い意思・希望があり、これを被告に伝え、調停を利用して可能な限り穏便な方法で法的に認められる範囲での解決を求める対応をとってきたこと等の事情を考慮すれば、婚姻前の氏の使用を一律に禁止する被告の業務命令に上記の必要性、合理性が存しないことは明らかである。

(ウ) その他、被告が主張する業務命令の必要性、合理性に理由がないことは、上記(1)の(原告の主張)エのとおりである。

エ 以上によれば、被告は、上記イで見た一連の行為により、上記労働契約法上の付随義務としての原告の人格的利益を保護し尊重すべき義務に違反したというべきである。

(被告の主張)

ア 上記(原告の主張)アは、争う。

イ 被告が原告に対して業務命令を行ったとの点は否認する。原告は、生徒、保護者及び教職員に対し、婚姻前の氏で呼ぶよう要求しているが、被告は、これに対し、不利益となる処分を課しておらず、戸籍上の氏の使用の求めには何ら強制力はない。したがって、上記の求めは指示又は命令とは評価できず、業務命令には当たらない。

ウ 仮に、被告が業務命令を行ったと認められるとしても、上記(1)の(被告の主張)イで見たとおり、原告に対し戸籍上の氏の使用を求めることには合理性、必要性がある。さらに、原告は、婚姻の事実が明らかになることや生徒等に対して通称に関して説明する煩わしさがあると主張するが、それらは、婚姻に伴って戸籍上の氏を変更したことに付随するものであり、不利益や損害と評価されるものではない。
 以上によれば、被告が戸籍上の氏の使用を求めたことは、労働契約法上の付随義務違反には該当しない。

4 原告の損害

(原告の主張)

 原告は、上記(2)及び(3)の(原告の主張)のとおり、被告による不法行為又は労働契約法上の付随義務違反行為により、日々、自己の意に反して戸籍上の氏の使用を受容させられ精神的苦痛を被っている。これを金銭に換算すると1月当たり10万円は下らず、平成○年4月1日から平成○年2月までの11か月間で合計110万円に相当する。
 また、上記被告の行為と相当因果関係の認められる弁護士費用としては11万円が相当である。

(被告の主張)

 原告の主張は否認ないし争う。原告は、自ら戸籍上の氏を変更したのであり、戸籍上の氏での表記、呼称を甘受しているといえる。そして、上記(3)の(被告の主張)ウのとおり、原告には不利益や損害と評価されるものは生じていない。

▲top

第4 本判決の要旨と結論

1 被告に対して原告の婚姻前の氏を使用することを求めることの可否(争点1)及び被告による不法行為の有無(争点2)について

(1)原告は、原告には人格権の一内容としての通称として婚姻前の氏を使用する権利が存すると主張し(この権利は、戸籍上の氏と婚姻前の氏との二者択一の場面に限定したものではなく、一般的なものとして主張されているものと解される。)、被告が原告に対し戸籍上の氏の使用を求めた行為及び被告が業務上の文書等において原告を戸籍上の氏で表記した行為が戸籍上の氏の使用を原告に強制するものであるとして、これらが上記権利の侵害に該当する旨主張する。

(2)そこで検討するに、氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するというべきものである(最高裁判所昭和63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁参照)。また、人は、その氏名を他人に冒用されない権利を有し、これを違法に侵害された者は、加害者に対し、損害賠償を求めることができるほか、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができると解される(最高裁判所昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。
 そして、氏名が上記の識別特定機能、個人の人格の象徴等の性質を有することに照らせば、氏名を自ら使用することが、いかなる場面で、いかなる目的から、いかなる態様で妨害されたとしても法的な救済が一切与えられないとすることは相当ではなく、その意味で、氏名を自ら使用する利益は、民法709条に規定する法律上保護される利益であるというべきである。
 また、氏は、氏名を構成する要素であり、それを自ら使用する利益についても、上記と同様の意味で、法律上保護される利益ということができる。

(3)以上の議論は、まずは戸籍上の氏名、氏について当てはまるところ、婚姻前の氏についても、同様にそれを使用する利益が法律上保護される利益といえるか否かについて検討する。
 婚姻前の氏は、婚姻時まで個人を他人から識別し特定する機能を有し、個人として尊重される基礎、個人の人格の象徴となってきた氏名の一部であり、個人が婚姻前に築いた信用、評価、名誉感情等の基礎ともなるものであることに照らせば、その利益がおよそ法的保護に値せず、上記で見たように、いかなる場合においてもその使用の妨害に対して何らの法的救済が与えられないと解するのは相当ではない。
 したがって、通称として婚姻前の氏を使用する利益は、人格権の一内容にまでなるか否かは措くとしても、少なくとも、上記の意味で、法律上保護される利益であるということができ、これを違法に侵害した場合には不法行為が成立し得ると解するのが相当である(なお、婚姻前においては、婚姻前の氏を基礎としてその人の信用、評価、名誉感情等が築かれるところ、通称として婚姻前の氏を使用する利益は、これらの信用等を維持する利益という側面を有する。この点に関し、婚姻によりこれらの信用の基礎となった氏が変更されれば、それによって築かれた信用等にも影響が及ぶところ、そのような影響を受けずにこれらを維持する利益は、人格権の一内容となるとまではいうことはできない。他方、通称として婚姻前の氏を使用する利益は、上記の氏の変更による影響を受けた後の信用等を維持する利益であり、この利益が法律上保護される利益に当たるか否かは、上記の影響を受けずに信用等を維持する利益が法律上保護される利益に当たるか否かと直結するものではないと解される。)。

(4)以上を前提として、本件において被告が原告に対し、通称として婚姻前の氏を使用することを一律に認めなかったことが原告の上記の法律上保護される利益を違法に侵害すると認められるか否かについて検討する。

ア 婚姻によって氏を改めた場合には、新たな戸籍上の氏を有することとなる。この戸籍上の氏は、婚姻前に使用した実績がないものであるが、出生の直後に付与された人の戸籍上の氏名が直ちに個人の識別特定機能を有し、個人として尊重される基礎となり、個人の人格の象徴となるのと同様に、氏の変更後直ちにその名とあいまって上記の機能を有し、個人として尊重される基礎、人格の象徴となるものと解される。
 そして、個人の識別特定機能は、社会的な機能であるところ、戸籍上の氏は戸籍制度という公証制度に支えられているものであり、その点で、婚姻前の使用実績という事実関係を基礎とする婚姻前の氏に比して、より高い個人の識別特定機能を有しているというべきである。
したがって、本件のように職場という集団が関わる場面において職員を識別し、特定するものとして戸籍上の氏の使用を求めることには合理性、必要性が認められるということができる。

イ また、婚姻後に通称として婚姻前の氏を使用する利益は、上記のとおり婚姻により新たな戸籍上の氏を有することとなることに照らせば、婚姻前に戸籍上の氏のみを自己を特定するものとして使用してきた期間における当該氏を使用する利益と比して、それと同程度に大きなものであるとはいえない。

ウ 確かに、証拠及び弁論の全趣旨によれば、近時、国及び多くの地方公共団体において、婚姻後も婚姻前の氏を使用することを認める旨の申合せや服務規程が存在し、原告のような学校の教職員についても、婚姻前の氏を通称として使用することが認められている場合が多数存すること、商業登記簿の役員欄に戸籍上の氏に婚姻前の氏を併記することができるように商業登記規則が改正され、平成27年2月27日から施行されていること、国家資格においても婚姻前の氏の使用が認められているものが少なくないことなどの事実を認めることができ、社会において、婚姻前の氏の使用が認められる範囲が広がる傾向にあることが認められる。
 しかしながら、平成27年に発行された新聞記事によっても、既婚女性のうち7割以上が職場では主に戸籍上の氏を使用している旨のアンケート調査結果があるとされているほか、証拠によれば、婚姻前の氏の使用が認められない国家資格もなお相当数存することが認められる。これらの事実を踏まえると、上記のように婚姻前の氏の使用が広がっていることを踏まえてもなお、いまだ、婚姻前の氏による氏名が個人の名称として、戸籍上の氏名と同じように使用されることが社会において根付いているとまでは認められない。

エ 以上に照らせば、上記のとおり、通称として婚姻前の氏を使用する利益は一般的には法律上保護される利益であるということができるが、本件のように職場が関わる場面において戸籍上の氏の使用を求めることは、その結果として婚姻前の氏を使用することができなくなるとしても、現時点でそれをもって違法な侵害であると評価することはできないというべきである。
 上記ウで見た我が国における婚姻前の氏の使用の広がり、女性の社会進出の状況に照らせば、職場等において状況に応じて婚姻前の氏の使用を認めるよう配慮していくことが望ましいということができるが、上に見たとおり、本件における被告の行為をもって不法行為と認めることはできない。したがって、原告の不法行為による損害賠償請求は、理由がない。

(5) さらに、仮に、通称として婚姻前の氏を使用する一般的な利益が法律上保護される利益に該当するのみならず人格権の一内容として保護されるものであったとしても、上記と同様、職場が関わる場面で戸籍上の氏の使用を求める行為をもって、違法な人格権の侵害であると評価することはできないから、原告の人格権に基づく妨害排除(予防)請求も理由がないといわざるを得ない。

2 争点(3)(被告による労働契約法上の付随義務違反の有無)について

(1)原告は、被告の戸籍上の氏の使用の求めは、原告の本質的な労務内容、性質とは直接関連性を有せず、そのような業務命令を発する根拠が不明である旨主張する。
 しかしながら、被告が主張するとおり、教職は多数の生徒と接し、その教育等を行うものであるから教職員の個人の特定は重要であり、また、被告においてもその業務に当たり教職員を識別、特定して、管理することは必要であると認められるから、被告において教職員の使用する氏について一定の行為を求める権限がないとは認められない。

(2)そして、本件において、被告が原告に対し、戸籍上の氏の使用を求めたことに合理性、必要性があることは、上記1(4)で見たとおりであり、仮に、被告の上記行為が業務命令に該当するとしても、原告が婚姻前の氏を使用することができないことの不利益を考慮してもなお、上記の合理性、必要性をもって、当該業務命令の適法性を基礎付けるに足りる合理性、必要性が存するというべきである。

(3) 以上によれば、被告が労働契約法上の付随義務に違反したとは認められない。
 以上のとおりであるから、原告の請求は、その余の点を判断するまでもなくいずれも理由がない。よって、原告の請求をいずれも棄却することとし、主文のとおり判決する。

▲top

第5 予備的検討

はじめに

 本件は、東京都内に所在する私立高等学校・中学校に勤務する30代の女性教諭が、結婚後に戸籍上の姓の使用を学校側から強制されたとして、学校側に旧姓使用の許可などを求めた事件である。東京地裁(小野瀬厚裁判長)は、平成28年10月11日、学校側が戸籍上の姓の使用を職員に求めたことに合理性、必要性があり、違法性は認められないとして、女性教諭側の主張を退け、本件のように職場が関わる場面において戸籍上の氏の使用を求めることは、その結果として婚姻前の氏を使用することができなくなるとしても、現時点でそれをもって違法な侵害であると評価することはできないとして、私立校女性教諭の訴えを棄却した※2
 本判決は、時代の流れに逆行する「職場での旧姓使用を認めない」判決として注目に値するのみならず※3 、2015年12月16日に下された夫婦別姓制訴訟に対する最高裁大法廷判決※4に照らしても、婚姻前の氏の通称の問題について種々の観点から考察する意義があると思われる。以下では、それらの問題点について、簡潔に解説を試みることにした。引用すべき裁判例や学説については、年末年始を挟んだので図書館利用の支障があり、限定的とならざるをえなくなったことについて、御理解を賜りたい。

1 国際結婚と渉外戸籍

(1)民法750条をめぐる夫婦別姓問題と沸き上がる憲法論
 1990年代以降、女性の社会的進出・自立に伴い、夫婦別姓問題が社会問題化し、民法750条が憲法違反であると主張されるに至った。それらの憲法違反の根拠としては、民法750条の問題性は、婚姻に際して夫婦の一方に氏の変更を強制する「夫婦同氏原則」自体にあるのであって、①氏の選択を一方に強制することが、夫婦の同等の権利を保障する憲法24条1項に反する、②婚姻の際に氏の変更を強制することで、憲法24条1項に反する、③実質的に妻(女性)の氏の変更が(間接)強制される傾向にあることで、両性平等を定める憲法14条1項、憲法24条2項に反する、④氏の変更を強制すること自体が、憲法13条及び憲法24条1項の個人の尊厳に違反する、などの多くの論点が指摘されている※5
 夫婦別姓論が、憲法や女子差別撤廃条約との関係で取り上げられること、また、個人の氏名の自己決定権ないし氏名権のような権利の成否が検討されることも現在のわが国では不可欠であろう。

(2)渉外的婚姻における夫婦の氏
 しかし、個人の氏名の自己決定権ないし氏名権のような権利は、憲法上は「新しい権利」として理解されているが、既に、第二次世界大戦後のわが国における渉外的結婚・離婚における夫婦の氏の問題として激しく議論されてきたのである※6。すなわち、渉外的な婚姻により夫婦の氏が夫または妻の氏に統一されるか、それと、夫婦とも何らの氏の変更を受けないか、また、統一されるとしてもいずれの氏に統一されるかということである。
 当時の判例と通説[婚姻効果法説、婚姻効力説]は、氏の問題が人の独立の人格権たる氏名権の問題として本人の属人法によるとの一般原則を認めた上で、氏の変更が本人の意思によらない婚姻や養子縁組などの身分変動に伴い生ずるときには、身分関係の効力によらしめるのが適当であるとした※7。これに対して、後年、通説的見解となる[本国法説、氏名権説、人格権説]は、氏名権が人格の属性であり、当事者の権利能力の問題と把握し、氏の問題の準拠法を各当事者の本国法によらしめるべきであるとした※8。これらの見解に対して、氏を国民登録である戸籍上の識別符号と解し、国際私法の適用を排除し、専らわが国の公法である戸籍法によらしめる[氏名公法説]がある※9
 これらの見解の内、氏の戸籍編成原理・機能を強調し、比較家族法上、姓が有する機能を看過する氏名公法説には、後述する夫婦別姓論を排斥する要因が秘められている。すなわち、この学説は、日本国憲法による「家」制度の廃止により、氏が個人の呼称とされたにもかかわらず、依然として、渉外戸籍先例の基礎に、「家」制度の体質が存在しているのであり、戸籍法の規定により実体法である国際私法や民法の規定を規制する戸籍実務の在り方に根源的な問題がある※10

(3)「呼称上の氏」と「民法上の氏」の二重概念
 わが国においては、日本国憲法により「家」制度が廃止されたにもかかわらず、明治初年に全国民に氏が制定されてより、氏の変更禁止の原則が貫かれており、渉外戸籍実務においても、戸籍制度と「家」制度の伝統的様式を受け継いだ、日本人だけが戸籍編成の単位となる正式な「氏」であるとする取扱いがなされてきた。すなわち、渉外的婚姻に伴う夫婦の氏の問題について、戸籍実務においては、国際私法の指定する準拠法にしたがうことを拒んだ取扱いがなされ、民法750条の解釈、事項的適用問題とされてきたのである。
 そして、民法750条は、日本人同士の婚姻についてだけ適用される規定とされ、日本法上、渉外婚姻に伴い日本人の氏が当然に変更されることはないし、外国人が日本人の氏を取得することもないと処理された※11。例えば、外国人の姓をカタカナ表記にして、日本人夫婦と異なる取扱いをすることは、性質の違いとされたのである。
 この事態を具体的に見ると、仮に、外国人J.F.ケネデーと日本人鈴木花子さんが婚姻したときには、新戸籍は作成されず、単に身分事項爛に婚姻の事実が記載されたに過ぎない。そして、戸籍上の氏についても、そして、氏の準拠法上、婚姻により妻の氏が変更された場合であっても当然には変更しないという取扱いがなされてきた。かくして、鈴木花子の戸籍上の氏名は、鈴木花子、社会生活上の氏名(呼称)がケネデー花子とされた。こうした、当事者の意思に反した「呼称上の氏」と「民法(戸籍法)上の氏」の二重概念、当事者が望まない二重の氏の国家による強制を克服することが、わが国における氏名権の歴史の原像でもあった。

(4)戸籍法の規定を規制する戸籍実務の在り方を批判する審判
 しかるに、従来からの渉外戸籍の先例を痛切に非難する審判が下される。京都家裁昭和55年2月28日審判である※12。本審判は、人格権たる氏名権と法性決定し、その準拠法を属人法によるとした国際私法の規定を戸籍法の規定が規制する戸籍実務の批判の在り方は疑問とせざるをえないとし、「渉外関係における氏の問題も個人の呼称という諸国に共通した概念でとらえるべきを相当と解する。したがつて、外国人が日本法上の氏を称することはなんら妨げないものと解される」とした。
 この審判後、日本人と外国人の間に出生した嫡出子の父母欄の記載について、当該外国人が「その本国法に基づく効果として」日本人配偶者の氏をその姓として称していることを認めるに足りる証明書等が提出されたときには、外国人配偶者の姓を日本人配偶者の氏の漢字を用いて表記することが認められたが、依然として、婚姻効果法説が否定され、表記方法が変更されただけである※13。そして、昭和59年戸籍法改正の際の通達(昭和59年11月1日民二第5500号民事局長通達)の解説においては、外国人は配偶者と日本人配偶者の氏の表記が同一であれば、この父母欄の母の氏の記載を省略して差し支えないとされたが、この取扱いは、渉外実質法の適用規範の問題とされたに過ぎない※14
 そして、京都家裁昭和55年2月28日審判後に、渉外婚姻当事者の意思を尊重する必要性を考慮したものとして、昭和59年戸籍法改正による107条2項の新設が新設された。渉外婚姻をした日本人配偶者が6か月以内に届け出をすることにより、その氏を外国人配偶者の氏に変更することを認めたのである※15
 しかし、この規定の新設は、「呼称上の氏」と「民法上の氏」という、戸籍編成技術上の観念的な二重概念を放棄したものでない。夙に、指摘されてきたように、「特殊日本的で」あって、国際的には通用しない、日本人に固有の氏という発想自体を、速やかに改める必要がある※16

2 女子差別撤廃条約

(1)女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約(以下では、「条約」とか「女子差別撤廃条約」という)の作成背景及び採択の経緯※17

1)作成の背景
 第二次世界大戦の悲劇の反省から国際連合憲章(1945)は、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の権利の平等に関する信念を改めて確認し(国連憲章第1条3)。また、世界人権宣言は、差別は容認することができないものであるとの原則を確認していること、並びにすべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳及び権利について平等であること並びにすべての人は性による差別その他のいかなる差別もなしに同宣言に掲げるすべての権利及び自由を享有することができることを宣明した。そして、国連経済社会理事会により設置された人権委員会及び婦人の地位委員会を中心として基本的人権の尊重、男女平等の実現について積極的な取り組みが行われてきた。その結果、両委員会が作成した男女平等に関する条約には、1966年に採択された「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」(A規約)、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(B規約)、また、「婦人の参政権に関する条約」等がある。
 ところが、人権に関する国際規約の締約国がすべての経済的、社会的、文化的、市民的及び政治的権利の享有について男女に平等の権利を確保する義務を負っており、国際連合及び専門機関の主催の下に各国が締結した男女の権利の平等を促進するための国際条約、採択された決議、宣言及び勧告の文書が存在しているにもかかわらず、女子に対する差別が依然として広範に存在していることから、1967年、第22回国連総会において、「女子に対する差別の撤廃に関する宣言」が採択された。その後、この宣言に規定する原則に基づき、より有効な措置をとるべきであるとの認識が強まるに至り、第24回婦人の地位委員会において、1972年に女子に対する差別の撤廃のために法的拘束力を有する新たな包括的な国際文書の起草作業を開始することが決議された。

2)婦人の地位委員会における条約草案の作成及び採択
 この条約の作成の作業は、婦人の地位委員会における条約草案作成(1974年~1976年)の段階と国連総会における審議及び採択(1977年~1979年)の段階に大別できるが、詳細は省略する。婦人の地位委員会は、1974年1月、第25回会期に先立ち作業部会を設置して条約案の検討を開始し、1976年12月第26回再開会期でこの条約の草案の作成を完了した。この条約の草案は、第32回総会から第34回総会にかけて毎年審議され、その結果1979年12月18日に第34回総会において、賛成130(わが国を含む。)、反対なし、棄権11で採択された。この条約は、1980年3月1日に署名のために開放され、わが国は、1980年7月17日、デンマークで国連婦人の10年中間年世界会議が開催された際に行われた条約の署名式において署名をした。本条約は、第27条の規定に基づき第20番目の批准書又は加入書の寄託国であるセントヴィンセント及びグレナディーン諸島が本条約の加入書を寄託した日の後30日目、即ち1981年9月3日に発効したが、日本では、遅れて1985年において発効した。

(2)女子差別撤廃条約16条1(g)、女子差別撤廃委員会勧告、そして、日本政府の対応

1) 女子差別撤廃条約は、条約の名称に記載されたように女性に対するあらゆる差別を撤廃し、両性の平等を確保することにより、条文の文言にとどまらず、女性の権利を具体的に明記した※18。そして、16条において、「夫及び妻の同一の個人的権利」には、(姓及び職業を選択する権利を含む)という括弧書きが明記されたのである。

2) 女子差別撤廃委員会
 この委員会(Committee on the Elimination of Discrimination against Women:CEDAW)※19は、女子差別撤廃条約の履行を監視するために、実施に関する締約国からの報告の検討、委員会活動の国連総会への報告、提案及び勧告などを行うために、同条約17条※20に基づき、国際連合人権理事会が設置している外部専門家からなる組織である。
 まず、女子差別撤廃条約の履行を監視する使命を有する女子差別撤廃委員会は、同条約16条1項により、特に、男女の平等を基礎として、婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとしている。同委員会からは、わが国の民法の婚姻適齢(731条)、再婚禁止期間規定(733条)、夫婦同氏原則(750条)が条約16条に抵触していることは判然としている旨指摘されている。

3) そこで、同委員会は、女子差別撤廃条約の対象となった民法規定について、日本政府と繰り返して交渉を重ねてきた※21 。その概要を主として夫婦同氏原則について記載すると、以下のようである。

ア 1994年1月27日及び28日の第248回会期において、日本の第2回及び第3回一括定期報告(CEDAW/C/JPA/12 of 9 July)を検討した日本の報告に対する(第14回女子差別撤廃委員会報告(A/50/38)関連部分)最終コメント(仮訳)によれば、「631 委員会は、また、本件報告が、豊富なデータを含んでいるにもかかわらず、事実の記述にとどまり、日本における本件条約の十分な実施に対する障害についての批判的分析に欠けていることに懸念を表明した」、また、「日本女性が私生活及び職場において直面する法律上及び職務上の差別が指摘されるべきであり、また、これらの障害を克服するための現存し又は予定されている措置も、特定されるべきである。」とした※22

イ ついで、2003年7月8日、委員会は、日本政府の女子差別撤廃条約第4回及び第5回報告書に対する委員会最終コメントを提出した※23
 それによれば、「371 委員会は、民法が、婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、夫婦の氏の選択などに関する、差別的な規定を依然として含んでいることに懸念を表明する。委員会は、また、戸籍、相続権に関する法や行政措置における嫡出でない子に対する差別及びその結果としての女性への重大な影響に懸念を有する。372 委員会は、民法に依然として存在する差別的な法規定を廃止し、法や行政上の措置を条約に沿ったものとすることを要請する。」とある。
 これに対して、日本政府(与党自民党)は、前記1996年の民法改正案要綱を実施することはしなかった。そして、2008年4月に日本政府よりなされた第6回報告は、家族法については、「家族に関する法律の整備 393 世論調査等により国民意識の動向を把握しつつ、結婚に伴う氏の変更が職業生活等にもたらしている支障を解消するという観点からも、婚姻最低年齢の男女統一及び再婚禁止期間の短縮を含む婚姻及び離婚制度の改正の是非と併せ、選択的夫婦別氏制度について、国民の議論が深まるよう引き続き努めている。」と簡潔に指摘したのみであった※24

ウ 日本政府の第6回報告に対して、委員会からは、「問28 前回の最終コメントにおいて(A/58/38、セクションIV、パラ371参照)、委員会は、民法が婚姻最低年齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、夫婦の氏の選択などに関する、差別的な規定を依然として含んでいることに懸念を表明した。報告は、女性に対して差別的な民法の規定を廃止するために政府が取った具体的な行動に関して、何も示していない。この情報を提供されたい。」との質問が寄せられた※25
 これらの事項に対する日本政府の回答〈仮訳〉は、「1996年2月に法務大臣の諮問機関である法制審議会が『民法の一部を改正する法律案要綱』を答申した。この要綱における改正事項として、婚姻適齢を男女共に満18歳とすること、再婚禁止期問を100日に短縮すること、選択的夫婦別氏制度を導入することなどが提言された。2005年12月に閣議決定された『男女共同参画基本計画(第2次)』では、具体的施策として、婚姻適齢の男女統一及び再婚禁止期間の短縮を含む婚姻及び離婚制度の改正とあわせ、選択的夫婦別氏制度について、国民の議論が深まるよう引き続き努めることを明記した。2006年12月に女性の婚姻適齢選択的夫婦別氏制度等家族の法制に関する世論調査を実施するなどしつつ、婚姻及び離婚制度についての検討を行っている。また、上記『要綱』の内容及びそのうちの選択的夫婦別氏制度の概要について、ホームページへの掲載等を通じ、広く国民にその内容を公開し、国民の議論が深まるよう引き続き努めている。」という内容である※26

エ そして、日本政府の第6回報告に対する審議は、2009年8月に行われ、最終見解が提示された。そのなかで、民法改正と暫定的特別措置導入の二つが、2年以内のフォローアップ項目と指定された※27。とくに、その第17・18パラグラフで、民法の差別的な法規定についての指摘がなされた。
 すなわち、女子差別撤廃委員会2009年8月7日最終見解によれば、
 「17.委員会は、前回の最終見解における勧告にもかかわらず、民法における婚姻適齢、離婚後の女性の再婚禁止期間、及び夫婦の氏の選択に関する差別的な法規定が撤廃されていないことについて懸念を有する。更に、委員会は、戸籍制度及び相続に関する規定によって嫡出でない子が依然として差別を受けていることについて懸念を有する。委員会は、締約国が、差別的法規定の撤廃が進んでいないことを説明するために世論調査を用いていることに懸念をもって留意する。
 18.委員会は、男女共に婚姻適齢を18歳に設定すること、女性のみに課せられている6カ月の再婚禁止期間を廃止すること、及び選択的夫婦別氏制度を採用することを内容とする民法改正のために早急な対策を講じるよう締約国に要請する。さらに、嫡出でない子とその母親に対する民法及び戸籍法の差別的規定を撤廃するよう締約国に要請する。委員会は、本条約の批准による締約国の義務は、世論調査の結果のみに依存するのではなく、本条約は締約国の国内法体制の一部であることから、本条約の規定に沿うように国内法を整備するという義務に基づくべきであることを指摘する。」とある。

オ 2011年8月に、このフォローアップに対する日本国の動向及び日本政府の取組みは、以下のように回答されたが、極めて内容が乏しく、委員会を落胆(憤慨)させるものであった※28
 「女子差別撤廃委員会の最終見解が示された2009年8月から、2011年7月までの間におけるパラグラフ18に関する回答を以下のとおり報告する。

Ⅰ.嫡出でない子の相続分に関する民法の規定についての最高裁判所決定について
 2009年9月30日、最高裁判所第二小法廷決定※29は、嫡出でない子の相続分を嫡出子の2分の1と定めた民法900条4号の規定は法の下の平等を定める憲法14条1項に違反するものではないとした。しかし、同決定において、4人中1人の裁判官は、当該規定は違憲であるとの反対意見を述べている。さらに、同決定の多数意見を構成した3人中1人の裁判官は、当該規定は少なくとも現時点においては違憲の疑いが極めて強いものであるとし、立法府が当該規定を改正することが強く望まれていると考えるとの補足意見を述べている。
Ⅱ.民法及び戸籍法の一部を改正する法律案(仮称)について
 2010年1月、婚姻適齢の男女統一、選択的夫婦別氏制度の導入、嫡出である子と嫡出でない子の相続分の同等化等を内容とする民法及び戸籍法の一部を改正する法律案(仮称)を第174回国会(常会)内閣提出予定法律案とした。同法律案については、国会提出のための閣議決定は行われず、国会には提出しなかった。」。

カ 女子差別撤廃委員会は、遂に、2011年11月4日、民法改正について、1年以内の報告を勧告し※30、日本政府が8月に提出したコメントへの見解を発表した※31。2009年の第6回日本審査の総括所見において、民法の差別的規定の改正について、2年内のフォローアップを勧告されたにもかかわらず、日本政府の8月のコメントでは、第3次男女共同参画基本計画に「民法改正について、引き続き検討する。」と記載した程度の報告にとどまったからにほかならない。
 女子差別撤廃委員会は、今回の見解において、男女ともに婚姻適齢を18歳に設定すること、女子差別撤廃条約16条1(g)の規定に沿って夫婦に氏の選択を認めること、婚内子・婚外子の相続分を同等化することを内容とする民法改正法案の採択について講じた措置、女性のみに課せられている6か月の再婚禁止期間を廃止する法律規定の準備及び採択について講じた措置について、1年以内に追加的に情報提供するよう勧告したのである※32

キ 2013年委員会見解 2012年12月総選挙の結果、自民党が政権に復帰した後は、民法改正の動きが極めて遠のいた。以前とは逆に、2012年4月に公表された自民党憲法改正草案を見ると、まさに、戦前の家制度への復帰を思わせるような「家族は互いに助け合わなければならない」(24条1項後段)という規定が追加され、現行憲法24条は、個人主義的でリベラルな性格を否定されたかのように退潮する内容となった。

ク これに対して、女子差別撤廃委員会から、2013年7月の審議に基づき、「女子差別撤廃委員会最終見解に対する日本政府コメントに係る追加的情報提供についての同委員会見解(2013年9月)」が送られてきた。その見解の内容は、極めて深刻である※33
すなわち、
 「女子差別撤廃委員会(CEDAW)の最終見解フォローアップ報告者として、2009年7月の女子差別撤廃委員会第44期における日本の第6回政府報告の審査について、言及させていただく。同会期終了時、委員会は日本の政府報告に対する最終見解を貴代表部に送付した(CEDAW/C/PN/CO/6)。最終見解において、委員会は日本に対し、最終見解のパラグラフ18及び28に含まれる勧告の実施に関し、更なる情報を2年以内に提出するよう要請した。
 委員会は、CEDAWフォローアップ手続に基づき、2011年8月5日、フォローアップ報告を受領した(CEDAW/C/JPN/CO/6/Add.1)。2011年10月の書簡により、委員会は、追加の情報を求めた。委員会は、2012年11月1日に遅滞なく受領した追加的情報を歓迎する(CEDAW/C/JPN/CO/6/Add.2)」。

ケ 2013年7月に、ジュネーブにおいて開催された委員会第55会期において、委員会はこの追加的情報を審査し、以下の評価を採択した。
 「男女共に婚姻適齢を18歳に設定すること、女子差別撤廃条約第16条(g)の規定に沿って夫婦に氏の選択を認めること、嫡出である子と嫡出でない子の相続分を同等化することを内容とする民法改正法案の採択について講じた措置」に関する追加的情報の要請について:
締約国は、内閣は、法改正法案を提出しておらず、この問題について政府は引き続き国民の議論を深めることを望んでいることを示した。委員会は、勧告が履行されていないものと判断する。
 「女性のみに課せられ、男性には課せられていない、6か月間の再婚禁止期間を廃止する法律規定の準備及び採択について講じた措置」に関する追加的情報の要請について:
 締約国は、民法改正法案には再婚禁止期間の短縮が盛り込まれていることを示した。しかしながら、委員会の勧告は再婚禁止期間の短縮ではなく、廃止にかかるものである。委員会は、勧告が履行されていないものと判断する。
 委員会は締約国に対し、次回の定期報告において、以下の講じた措置に関する追加的情報を提供するよう、勧告する:

1)男女共に婚姻適齢を18歳に設定すること、女子差別撒廃条約第16条(g)の規定に沿って夫婦に氏の選択を認めること、嫡出である子と嫡出でない子の相続分を同等化することを内容とする民法改正法案を採択すること。

2)女性のみに課せられ、男性には課せられていない、6か月間の再婚禁止期間を廃止する法規定を採択すること。

委員会は、女子差別撤廃条約の履行について、日本政府と建設的な対話を継続することを期待している。」。

コ 委員会による勧告が履行されていないことに対する日本政府の弁明は、女子差別撤廃条約実施状況第7回及び第8回報告の第16条において、婚姻及び家族関係に係る差別の撤廃について言及された※34。それによれば、

「1.家族に関する法律の整備
 383.2013年9月に最高裁判所大法廷※35において、民法の規定のうち嫡出でない子の相続分を嫡出である子の相続分の2分の1とする部分が違憲であるとの判断がされたことを受け、同年12月に民法を改正し、嫡出子と嫡出でない子の相続分を同等とした。
 384.婚姻適齢の男女統一、選択的夫婦別氏制度の導入及び再婚禁止期間の短縮等を内容とする民法等の改正については、国民の理解を得て行う必要があるとの認識の下、引き続き、国民意識の動向の把握に努め、また、国民の議論が深まるよう情報提供等に努めている。なお、1996年の法制審議会の答申を受け、同年及び2010年に、婚姻適齢の男女統一、選択的夫婦別氏制度の導入、女性の再婚禁止期間の短縮等を内容とする民法等の改正法案を国会に提出すべく準備をしたが、同法案については政府部内及び国民の間にさまざまな意見があり、国会に提出することができなかった
 385.なお、女性の再婚禁止期間は、女性が離婚後直ちに再婚することによって、出生した子の父が前婚の夫か後婚の夫か不明となることを防ぎ、父子関係を早期に安定させる必要から設けられたものであって、一定の再婚禁止期間を設けることは、合理的な理由に基づくものである。」とした※36

「別添資料1男女共同参画会議監視専門調査会における女子差別撤廃委員会の見解への対応に係る取組状況の監視

1 女子差別撤廃委員会の最終見解への対応に係る取組状況に関する意見

(2)各論

ア 民法改正関係
 嫡出でない子の相続分を嫡出子の相続分の2分の1とする民法(1896年法律第89号)の規定が違憲であるとの最高裁判所の決定(2013年9月4日)を受けて先般、国会に提出された民法の一部を改正する法律案は、違憲判断がされた同規定を改正する内容となっている。本年9月に女子差別撤廃委員会から上記規定への対応を含む民法改正に係る勧告が履行されていないとの評価を受けていることを踏まえれば、今般の措置にとどまらず、婚姻適齢の男女統一、選択的夫婦別氏制度の導入及び再婚禁止期間の短縮に係る民法改正及び出生届の記載事項に係る戸籍法(昭和22年法律第224号)の改正について、引き続き法案の提出に向けて努力する必要がある。その際、最終見解の中で、我が国の本件取組の説明に関し、世論調査を用いていることについて懸念が表明されていることに留意すべきである。
 選択的夫婦別氏制度に関しては、その意義や想定されている内容、氏の選択に関する現状等について広く情報提供することなどにより、国民各層における、より深い理解を促しつつ、その議論の裾野を広げるよう取り組む必要がある。」とした。

サ 女子差別撤廃委員会は、上記①~⑤にみたように、2003年の最終見解(総括所見)以降、とりわけ日本政府の第6回報告に関連して2009年から2013年にかけて何度も繰り返しフォローアップを求め、追加的情報提供を求める形で、民法改正を促してきたのである。委員会は、「勧告が履行されていないと判断」したとはいえ、その後も、「委員会は、女子差別撤廃条約の履行について、日本政府と建設的な対話を継続することを期待している。」と指摘して、締約国であるわが国に対して粘り強く説得する姿勢を示した。
 これに対して日本国内では、2012年12月選挙による政権交代により、選択的夫婦別姓制を認める民主党政権から、家族に関してはとくに保守的見解が強い自民党安倍内閣に政権が交代した結果、1996年の民法改正案要綱の立法化は、もはや忘却されたかのようである※37

(3)条約を履行する義務

1)女子差別撤廃委員会(CEDAW)は、2016年2月16日、第1375回及び1376回会合において、日本の第7次・第8次定期報告(CEDAW/C/JPC/7-8)を審議した(CEDAW/C/SR.1375及び1376参照)。委員会の課題と質問リストはCEDAW/C/JPN/Q/7-8に、日本の回答はCEDAW/C/JPN/Q/7-8/Add.1に掲載されているが、女子差別撤廃委員会(CEDAW)第63会期第7次・第8次日本報告審議総括所見では、今まで例を見なかった強さで、看過できない内容が盛り込まれた※38。それは、国会が重要な役割を果たすことを強調し、日本国憲法98条2項の「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」を引き合いに出し、選択議定書の批准をも求めたということである。

2)日本弁護士連合会から配布された第7次・第8次日本報告審議総括所見の翻訳によれば、

「国会

7 委員会は、条約の完全な履行を確実にするために、立法府が極めて重要な役割を果たすことを強調する(2010年第45会期に採択された条約と国会議員との関係についてのステートメント参照)。委員会は国会に対して、国会の権限に沿って、今から次回の定期報告までの期間に、今回の総括所見の履行について必要な措置を取るよう求める。

条約の法的地位、可視性及び選択議定書の批准

8 委員会は、締約国は日本国憲法98条2項において、締結され、公布された条約が国内法の一部として法的効果があることに留意する。しかし、条約が完全に国内法化されているわけではなく、2014年3月28日に東京高等裁判所※39が、条約は直接適用可能または自動執行性があると認めないと判断したことを委員会は懸念している。委員会はまた下記について懸念する。

(a) 締約国の認知度向上のための努力にもかかわらず、条約の規定が国内で充分には知られていないこと。

(b) 締約国によって選択議定書の批准する具体的な時間的枠組みについての情報が示されなかったこと。

(c) 委員会の前回の勧告(CEDAW/C/JPN/CO/6)が締約国によって完全には履行されなかったこと。

9 委員会は、締約国に対して下記を要求する。

(a) 本条約の条文を完全に国内法化すること。

(b) 政府官僚、国会議員、法律専門家、法執行官(訳注・警察官等)及び地域の指導者を含む締約国の関係者の間で、本条約及び委員会一般勧告並びに女性の人権についての認識を向上させるために既存のプログラムを強化すること。

(c) 選択議定書を批准することを検討し、選択議定書における先例について法律専門家と法執行官(訳注・警察官等)を研修すること。

(d) 明確な目標と指標とともに、今回の総括所見の履行についての国内行動計画の採用を検討すること。」とした※40

3)そして、「差別的な法および法的保護の欠如

12.委員会は、現存する差別的な規定に関するこれまでの勧告への対応がされていないことを遺憾に思う。委員会はとりわけ、以下のことを懸念する。

(a) 民法が女性と男性で異なる婚姻最低年齢、前者を16歳、後者を18歳とする差別的規定を保持していること。

(b) 6か月間から100日に短縮した最高裁判所の決定にかかわらず、民法が依然として女性にのみ離婚後一定期間再婚を禁止していること。

(c) 2015年12月16日、最高裁判所が、夫婦に同一氏の使用を強制している民法第750条の合憲性を支持したこと。この規定により、実際上多くの場合女性が夫の氏を選ぶことを余儀なくされている。

(d) 相続における婚外子差別規定が2013年12月に廃止されたにもかかわらず、出生届における差別的記載に関する戸籍法の規定を含む多くの差別的規定が維持されていること。

(e) 頻繁にハラスメントや汚名を着せること、暴力の対象となるさまざまなマイノリティ・グループに属する女性への交差的差別を網羅する包括的な差別禁止法がないこと。」への具体的な対応を求めているのである。

4)国際条約の遵守義務

 女子差別撤廃委員会(CEDAW)が指摘したように、夫婦別姓制訴訟にかかる2015年12月16最高裁判判決の原審である東京高裁2014年3月28日判決※41(一審、東京地裁2013年5月26日判決)は、東京地裁が「国会議員の立法不作為は、国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受ける。」、「民法750条は、女子差別撤廃条約16条1項(b)及び(g)に違反するものであって、被告は、同条約の締約国として、同条約2条(f)に基づき、民法750条を改廃する義務を負うものであり、法令の改廃の権限を独占する国会が長年にわたりその義務を放置した結果、原告らの同条約上の権利が侵害されたことは、国家賠償法1条1項の違法に当たる。」とした判断を是認したことを注視した。
 委員会は、女子差別撤廃条約の規定に基づき、当然の指摘と条約の遵守を求めているのである。すなわち、条約24条は、「締約国は、自国においてこの条約の認める権利の完全な実現を達成するためのすべての必要な措置をとることを約束する。」とした。しかるに、本条約を批准した日本政府が、委員会が指摘する「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃」のために必要な措置を講じていないことを、また、然るべき講ずるべきであると勧告してきたにもかかわらず、長年に及び無視し続けているので、条約の規定に基づき事態の是正を強く求めたのである。

5)諸外国における女子差別撤廃条約の本旨に基づく夫婦別姓制の採用

 本条約を他の国々がどのように履行すべく勤めてきたかを知るためには、諸外国の立法を検討するだけで十分である。今から20年程遡るが、諸国の法制において、選択的夫婦別姓を認める立法がなされるとともに※42、渉外的婚姻において、夫婦の氏を定める準拠法が婚姻の効力準拠法から属人法主義への移行や法選択制(当事者自治原則)が導入された。民法上の氏の自己決定権を渉外的婚姻においても発現しようとするものであった※43
 現在の比較法状況を見るに、別氏か同氏か、氏の選択の可能性、男女の平等との観点から検討の対象とされ得るが、多様性がある。しかし、条約の求める男女平等原則に反して夫の氏を強制するインドやタイ国を除くと、自国の文化や伝統を保持しながらも、この原則に照らして、氏制度の立法をしていることを確認することができる※44

6)国際条約の遵守義務と直接適用可能性

ア 女子差別撤廃委員会による日本政府に対する条約を遵守すべしとの指摘は、国際条約のわが国内における適用という根本問題に帰する。夫婦別姓制訴訟(最高裁大法廷2015年12月16日判決)において、原告らは、女子差別撤廃条約1条が規定する女性に対する差別にあたり、条約が個人の権利を創設していれば、その直接適用は可能である、と主張した。

イ しかし、同訴訟の控訴審判決は、「女子差別撤廃条約が、我が国の国民に対し、具体的な権利として『氏の変更を強制されない権利』を保障しており、女子差別撤廃条約の内容が国家と国民との間の法律関係に適用される規範として裁判所を拘束するためには、女子差別撤廃条約に直接適用可能性ないし自動執行力があることが必要であること、…しかるに、女子差別撤廃条約は、一定の権利を確保することに言及しているが、いずれも締結国がその権利を確保するよう適当な措置を執る必要があり、締結国の国民に対し、直接権利を付与するような文言になっておらず、国内法の整備を通じて権利を確保することが予定されているから、直接適用可能性ないし自動執行力があるとは認めることができないこと、したがって、女子差別撤廃条約の規定が、我が国の国民に対し、直接権利を付与するものとはいえない」とした。

ウ 上告審でも、国側は、答弁書において※45、「自動執行力が認められるためには、第1に『主観的要件』として、私人の権利義務を定め直接に国内裁判所で執行可能な内容のものにするという締結国の意思が確認できること、第2に『客観的要件』として、条約の規定において私人の権利義務が明白、確定的、完全かつ詳細に定められていて、その内容を具体化する法令に待つまでもなく国内酌に執行可能な条約規定であることが必要となる」とし、女子差別撤廃条約自身も「少なくも我が国は女子差別撤廃条約には自動執行力のないという締約国意思を有していることを前提としている」ので、主観的要件を欠くとし、さらに、私人の権利義務が明白、確定的、完全かつ詳細に定められているなどともいえないので、客観的要件も満たさない。かくして、女子差別撤廃条約の規定には自動執行力がなく、同条約はわが国の国民に対して直接権利を付与するものでない、と結論した。そして、大法廷判決では、憲法98条2項違反及び理由の不備をいうが、その実質は単なる法令違反をいうものであって、民訴法312条1項及び2項に規定する事由のいずれにも該当しない、と一蹴された。

エ 女子差別撤廃条約を含めた人権条約の直接適用可能性ないし自動執行力に関するわが国の議論の背景には、学説における国際人権条約と憲法・法律との関係(国際法と国内法の関係)における二元論と一元論、調整理論等の理論的課題が解決していないという事情もあるとの指摘がなされる※46
 本稿でも、この諸問題について検討を加えるべきところ、ここでは、女子差別撤廃条約に照らして、端的に筆者の結論を述べることにする※47。最高裁大法廷判決2015年12月16日判決からも知り得るように、わが国の裁判所は、国際条約に無理解である※48。しかし、わが国は、女子差別撤廃条約で、締約国の差別撤廃義務、条約上の権利の完全な実現を確約する規定を包含する条約に批准し、合意した。したがって、裁判所は、憲法98条2項に基づき、この条約の要請に応諾し、条約を解釈して女子の差別となるような判決を回避すべきであると確信する。わが国が女子差別撤廃条約に批准したのが1980年である。爾来、最高裁大法廷判決に至るまで35年余、条約を履行しない人権無視国としての評価が確立していることも忌憚なく言及しなければならない。

第2条〔締約国の差別撤廃義務〕 締約国は、女子に対するあらゆる形態の差別を非難し、女子に対する差別を撒廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞なく追求することに合意し、及びこのため次のことを約束する。

(a) 男女の平等の原則が自国の憲法その他の適当な法令に組み入れられていない場合にはこれを定め、かつ、男女の平等の原則の実際的な実現を法律その他の適当な手段により確保すること。

(b) 女子に対するすべての差別を禁止する適当な立法その他の措置(適当な場合には制裁を含む。)をとること。

(c) 女子の権利の法的な保護を男子との平等を基礎として確立し、かつ、権限のある自国の裁判所その他の公の機関を通じて差別となるいかなる行為からも女子を効果的に保護することを確保すること。

(d) 女子に対する差別となるいかなる行為又は慣行も差し控え、かつ、公の当局及び機関がこの義務に従つて行動することを確保すること。

(e) 個人、団体又は企業による女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとること。

(f) 女子に対する差別となる既存の法律、規則、慣習及び慣行を修正し又は廃止するためのすべての適当な措置(立法を含む。)をとること。

(g) 女子に対する差別となる自国のすべての刑罰規定を廃止すること。

第24条 締約国は、自国においてこの条約の認める権利の完全な実現を達成するためのすべての必要な措置をとることを約束する。

3 国立大学教官の旧姓使用にかかる訴訟事件と就業規則

(1)国立大学教官の旧姓使用にかかる訴訟事件(関口訴訟)
 本件では、私立学校における教諭の旧姓(通称)使用が問題とされているので、その比較材料として、わが国の国立大学教官が国に対し、研究教育活動や人事記録その他の文書において旧姓名を使用するよう義務付け、また、戸籍名の使用を強制されることについての損害賠償請求した訴え(いわゆる夫婦別姓訴訟事件)を取り上げる※49。この国立大学夫婦別姓通称使用事件は、マスコミでも大きく取り上げられ、通称の権利や、夫婦別姓の議論に影響を与えた※50
 原告は、その研究活動に対する被告らの侵害行為として、大学が取扱文書を(戸籍上の氏名によらなければならないもの、戸籍上の氏名又は括弧書きで旧姓名を使用しなければならないもの、旧姓名を使用して差し支えないものの三種類に分類したもの)を定めて、これらの文書について、また、教育活動や人事記録などについて戸籍上の姓名の使用が強制され、旧姓名の使用が拒否されたことを理由に、国に対しては、旧姓名を使用することに対する妨害排除、氏名を戸籍名で取り扱うことの差止め、さらに、被告らに対して、それらの理由により人格を侵害され、研究活動の妨害を受けたことによる精神的苦痛を被ったとして、国賠責任と不法行為責任に基づき損害賠償を求めた。
 原告は、こうした被告らの行為は、①氏名保持権(人格権=憲法13条)としての氏名権の侵害、②プライバシー権(幸福追求権=憲法13条)としての氏名権の侵害、③表現の自由の侵害(憲法21条)、④職業活動の自由の侵害(憲法22条)、⑤学問の自由の侵害(憲法23条)、⑥著作者氏名表示権の侵害、⑦世界人権宣言12条、国際人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)1条等に違反するものである旨主張した※51
 1993年11月、東京地裁は、以下のように判決した。「通称名であっても、個人がそれを一定期間専用し続けることによって当該個人を他人から識別し特定する機能を有するようになれば、人が個人として尊重される基礎となる法的保護の対象たる名称として、その個人の人格の象徴ともなりうる可能性を有する。」、しかし、「原告主張に係る氏名保持権…が憲法13条によって保障されているものと断定することはできない」、また、「夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高める場合があることは否定できず、また、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦である事実を示すことを容易にするものといえるから、夫婦同氏を定める民法750条は、合理性を有し、何ら憲法に違反するものではない。」とし、「個人の同一性を識別する機能において戸籍名より優れたものは存在しないものというべきであるから、公務員の同一性を把握する方法としてその氏名を戸籍名で取り扱うことは極めて合理的なことというべきである。」として、原告の国に対するいずれの請求も却下、被告らに対する請求をいずれも棄却した。
 その後、本件は控訴されたが、1998年、東京高裁にて「研究・教育分野での旧姓使用を認める」という形で和解が成立した。

(2)本件裁判の影響
 この裁判は、旧姓や通称に法的保護の対象となり得る可能性をある程度認めたこと、夫婦同氏を定める民法750条が客観的合理性を有し憲法には違反しないという判断をしたこと、さらに、戸籍名で公務員の氏名を取り扱うことの合理性を認めた点などにおいて注目された。しかし、その後の旧姓使用や夫婦別姓の議論に大きな影響を与えることになった。
 すなわち、2001年7月、各省庁人事担当課長会議「国の行政機関での職員の旧姓使用について」の申し合せ、官房長官記者発表「国の行政機関での職員の旧姓使用について」により、国家公務員の旧姓使用が可能となり、国立大学でもこれに準じた運用がなされるようになった。科学研究費補助金でも同年より旧姓または通称のみでの申請が認められるようになった。しかし、この訴訟は、「選択的夫婦別姓」の実現に向けた第一歩にすぎない※52

(3)就業規則
 関口訴訟では取り上げられることがなかったが、近年に至り、職場における、旧姓名の使用については、関口訴訟以後、多くの国公立大学、東京都などの多くの団体と組織の就業規則において、その使用を認める内容の規定が盛り込まれるようになった。ここでは、その一例を紹介するにとどめる。

1)国立大学法人茨城大学旧姓使用規程(平成16年4月1日規程第7号)改正※53

(趣旨)

第1条 この規程は、国立大学法人茨城大学就業規則(平成16年規則第8号)第12条第2項の規定に基づき、国立大学法人茨城大学(以下「大学」という。)に勤務する教職員が、戸籍上の氏を改めた後も引き続き前の戸籍上の氏(以下「旧姓」という。)を大学における文書等に使用する場合の取扱いについて、必要な事項を定める。
[国立大学法人茨城大学就業規則(平成16年規則第8号)第12条第2項]
(旧姓使用)

第2条 教職員は、法令により制限されている場合を除き、大学において旧姓を使用することができる。 2 学長は、教職員から旧姓使用の申出があった場合は、原則として旧姓のみの使用を認める。 3 戸籍上の氏と旧姓を併記することが必要と認められる文書等については、戸籍上の氏を併記する。

2)〔東京都公立学校職員服務規程〕を次のように定める※54
(平11教委訓令28・改称)

(趣旨)

第1条 この規程は、別に定めがあるもののほか、都立学校に勤務する東京都から給料又は報酬を受けている者で、常勤の職員、地方公務員法(昭和25年法律第261号)第28条の5第1項に規定する短時間勤務の職を占める職員及び同法第17条の規定に基づき任用される非常勤の職員(以下「職員」という。)の服務に関し、必要な事項を定めるものとする。(平11教委訓令28・平13教委訓令4・平17教委訓令6・平27教委訓令3・1部改正)

(旧姓の使用)

第3の2 職員は、婚姻、養子縁組その他の事由(以下「婚姻等」という。)により戸籍上の氏を改めた後も、東京都教育委員会教育長(以下「教育長」という。)が別に定める基準に基づき、引き続き婚姻等の前の戸籍上の氏を文書等に使用すること(以下「旧姓使用」という。)を希望する場合又は旧姓使用を中止することを希望する場合は、別に定めるところにより速やかに申し出なければならない。

2 前項の申出を受けた場合、旧姓及び変更後の戸籍上の氏の確認を行い、別に定めるところにより当該職員に旧姓使用又は旧姓使用の中止を通知する。

3 旧姓使用の通知を受理した職員は、通知された使用開始年月日から旧姓使用を行うこととし、旧姓使用中止の通知を受理した職員は、通知された使用中止年月日から旧姓使用を中止しなければならない。

4 職員は、旧姓使用を行うに当つて、都民及び他の職員に誤解や混乱が生じないように努めなければならない。

5 任命権者を異にする異動があつた者で、現に人事記録に旧姓使用に係る事項が記録されているものは、旧姓使用を行うものとする。
(平14教委訓令21・追加)

(4)就業規則の記載事項
 就業規則に、旧姓名の使用にかかる事項が記載されるということは、まさしく、女子差別撤廃条約16条1(g)が定める「夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)」が男女の平等を基礎として要請する女子に対する差別を撤廃するための適当な措置を講ずることを意味する。わが国の労基法では旧姓名使用に係る事項は、絶対的必要記載事項にも、相対的必要記載事項としても列挙されていない。この法は、旧態然としていて、女子差別撤廃条約にかかる配慮が存在しないことを知ることが可能である。ただし、近年の就業規則の作成の実務では、旧姓名の使用にかかる条項も盛り込まれるようになっていることを指摘しておく。
 関口訴訟において、原告は、その理由として、①氏名保持権(人格権=憲法13条)としての氏名権の侵害、②プライバシー権(幸福追求権=憲法13条)としての氏名権の侵害、③表現の自由の侵害(憲法21条)、④職業活動の自由の侵害(憲法22条)、⑤学問の自由の侵害(憲法23条)、⑥著作者氏名表示権の侵害、⑦世界人権宣言12条、国際人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)1条等を取り上げたことが想起されなければならない。しかし、関口訴訟においては、昭和63年に提訴されたことから、批准して間もない女子差別撤廃条約16条1(g)は、残念ながら、根拠条文とされなかった。
 ところで、現在の事情はそのようでない。わが国の憲法秩序においても両性の平等(憲法14条1項)と基本的人権の尊重(憲法11条)も含めて、同一の権利を認める女子差別撤廃条約の規定は、女性にもあらゆる場で、無論、職場においても、旧姓名を使用する法的な根拠となるものと考える。

4 家族法改正と選択的夫婦別氏論

(1)人格権としての氏名権
 わが国の判例において、「氏名を正確に呼称される利益」が人格権の一内容を構成するとしたのは、最三判昭和63年2月16日判決である※55。本件では、戸籍上の氏や旧姓名の使用が問題となったものではなく、氏名を正確に呼称される利益が評価の対象とされた判決である。最高歳は、一般論として、「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。」と述べ、専用権としての氏名権の存在を肯定した。しかし、結論として、「氏名を正確に呼称される利益は、氏名を他人に冒用されない権利・利益と異なり、その性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない。」として、原告の請求を退けた。
 本最高裁判決の要旨で、旧姓名の使用との関係で留意すべきことがある。それは、不法行為の成立を否定する理由付けである。その要旨によれば、昭和50年当時テレビ放送のニュース番組において在日韓国人の氏名をそのあらかじめ表明した意思に反して日本語読みによって呼称した行為は、在日韓国人の氏名を日本語読みによって呼称する慣用的な方法が是認されていた社会的な状況の下では、違法とはいえない、としたことである。氏名を呼称する慣用的な方法の是認が前提とされるというのであれば、氏名権の一内容としての長年使用してきた旧姓名を呼称として使用することを否定することにいかなる理由があるといえようか。
 ただし、筆者は、呼称機能の拡大と自由化により民法750条の存置を肯定する者ではない。

(2)民法改正案要綱と選択的夫婦別氏制
 女子差別撤廃委員会の1994年1月27・28日会期において、日本の第2回及び第3回一括定期報告を検討した日本の報告に対する最終コメントがなされた。それによれば、「本件条約の十分な実施に対する障害についての批判的分析に欠けていることに懸念を表明した」、また、「日本女性が私生活及び職場において直面する法律上及び職務上の差別が指摘されるべきであ」るとの手厳しい批判がなされた。
 他方、わが国でも、女子差別撤廃条約の批准に対応して、日本政府は、1986年婦人問題企画推進本部を強化し、1987年、「西暦二〇〇〇年に向けての新国内行動計画」を策定した。1991年には、その第一次改定が行われたが、そこで、男女共同参画型社会の建設を目標として設定し、また、家族法の婚姻、離婚、親子に関する民法改正を提起した。法制審議会は、1991年1月以降、現行家族法の見直しを進めてきた※56。同審議会総会は、1996年2月、「民法の一部を改正する法律案要綱」(「民法改正要綱」と略称)を決定した。民法改正要綱の主な内容は、以下のとおりである※57

(1)婚姻適齢は、男女とも18歳とする。

(2)女性の再婚禁止期間は、100日に短縮する。

(3)夫婦の氏について選択的別姓を導入する。別姓夫婦は、婚姻の際に夫または妻の氏を子が称する氏として定める。既婚夫婦は、改正法の施行後一年以内に限り、配偶者の同意を得て婚姻前の一氏に復することができる。
(以下、省略)

(3)1996年に決定した民法改正要綱は、国会で審議、継続審議そして廃案の運命を辿り、その決定から20年を過ぎた。日本弁護士連合会では、2016年6月1日に会長名で、「かねてから民法第733条、同第750条、同第731条を差別的規定であるとして繰り返し改正を求めてきたが、引き続き、国に対し、民法第733条をさらに改正し再婚禁止期間の廃止を求めるとともに、民法第750条を改正し選択的夫婦別氏制度を導入すること、民法第731条を改正し、男女の婚姻適齢を満18歳に統一することを求める」との声明を出したが、その実現の目途すら立たない状況にある※58

5 夫婦別姓制訴訟(最高裁大法廷判決2015年12月16日判決)

(1)最高裁2015年12月16日大法廷判決※59
 本件の解説・評価をするためには、その前提として、夫婦別姓制について憲法判断をした最高裁2015年12月16日大法廷判決を取り上げることが必要不可欠である。すなわち、本件では、憲法13条により保障される人格権の一内容たる氏名権にかかわっているからである。
 そこで、以下では、最高裁判決につき以下の2点に限定して論ずる。第1は、憲法13条に基づき、婚姻の際に「氏を強制されない自由」が人格権の一内容を構成するか否か、第2は、岡部喜代子裁判官により指摘される多数意見の夫婦同氏制にかかる憲法24条の解釈についてである。ただし、本稿では、民法750条を改廃する立法措置をとらない立法不作為は、国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるか否かについては、論究しない。また、筆者は、無論、多数意見と反対意見よりも裁判官山浦善樹の反対意見を多とするものである。しかし、岡部裁判官らの反対意見は、この分野において、今後の先駆的な役割を果たすこととなることを祈念する。

(2)最高裁では、夫婦が婚姻の際に定めるところに従い夫又は妻の氏を称すると定める民法750条の規定の憲法適合性が問題とされた。その事案は以下のようである。原告ら5名は、婚姻届後も婚姻前の氏を通称として使用している者、および、婚姻届提出の際に婚姻後の氏の選択をせずに提出した婚姻届が不受理となった者である。原告らは、民法750条が憲法13条の氏の変更を強制されない自由を侵害し、また、憲法24条1項の趣旨の趣旨に沿わない制約を課していると、さらに、「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」に反するものであるとし、夫婦同氏制度に加えて夫婦別氏制度という選択肢を新たに設けない立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けると主張して、被告国に対し、それぞれ精神的損害の賠償金の支払いを求めた。
 この請求に対して、第一審、原審とも、本件規定が憲法13条や24条、女子差別撤廃条約に反するものとは認めず、本件立法不作為が国家賠償法1条1項の適用上違法の評価を受けるとは解されないとして、原告らの請求を棄却すべきものとした。これに対し、上告したところ、最高裁大法廷は、判決のとおり述べて、上告を棄却した。最高裁で主に問題となったのは、①憲法13条に関連して、婚姻の際に「氏の変更を強制されない自由」が人格権の一内容であるといえるか、②憲法24条1項に関連して、本件規定がほとんど女性のみに不利益を負わせる差別的な効果を有する規定であるといえるか、③憲法24条に関連して、民法750条が憲法24条1項の趣旨に沿わない制約を課したものか、本件規定が同条の定める立法上の要請、指針に照らして合理性を欠くものかという点である。なお、上告人らの論旨においては、原判決が女子差別撤廃条約に関する解釈を誤っており、憲法98条2項に違反する旨の主張もあるが、この点については単なる法令違反の主張であり、適法な上告理由には当たらないものとされた。

(3)まず、民法750条が憲法13条に違反するという上告理由部分について、
 「氏は、婚姻及び家族に関する法制度の一部として法律がその具体的な内容を規律しているものであるから、氏に関する上記人格権の内容も、憲法上一義的に捉えられるべきものではなく、憲法の趣旨を踏まえつつ定められる法制度をまって初めて具体的に捉えられるものである。」、「社会の構成要素である家族の呼称としての意義があるとの理解を示しているものといえる。そして、家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位であるから、このように個人の呼称の一部である氏をその個人の属する集団を想起させるものとして一つに定めることにも合理性があるといえる。」、「氏に、名とは切り離された存在として社会の構成要素である家族の呼称としての意義があることからすれば、氏が、親子関係など一定の身分関係を反映し、婚姻を含めた身分関係の変動に伴って改められることがあり得ることは、その性質上予定されているといえる。」
 「以上のような現行の法制度の下における氏の性質等に鑑みると、婚姻の際に『氏の変更を強制されない自由』が憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとはいえない。本件規定は、憲法13条に違反するものではない。

(4)憲法14条1項に違反について

1)多数数意見は、「本件規定は、夫婦が夫又は妻の氏を称するものとしており、夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねているのであって、その文言上性別に基づく法的な差別的取扱いを定めているわけではなく、本件規定の定める夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない。」、「したがって、本件規定は、憲法14条1項に違反するものではない。」とした。

2)これに対して、岡部喜代子裁判官は、本件上告を棄却すべきであるとする多数意見の結論には賛成するが、本件規定が憲法に違反するものではないとする説示には同調することができないので、その点に関して反対意見を述べ、裁判官櫻井龍子、同鬼丸かおるは、この意見に同調した。

3)民法750条は、「昭和22年に制定された当時としては合理性のある規定であった。したがって、本件規定は、制定当時においては憲法24条に適合するものであったといえる。」
 しかし、「近年女性の社会進出は著しく進んでいる。婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく、婚姻後に稼働する女性も増加した。」、「氏の第一義的な機能が同一性識別機能であると考えられることからすれば、婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。このような同一性識別のための婚姻前の氏使用は、女性の社会進出の推進、仕事と家庭の両立策などによって婚姻前から継続する社会生活を送る女性が増加するとともにその合理性と必要性が増しているといえる。現在進行している社会のグローバル化やインターネット等で氏名が検索されることがあるなどの、いわば氏名自体が世界的な広がりを有するようになった社会においては、氏による個人識別性の重要性はより大きいものであって、婚姻前からの氏使用の有用性、必要性は更に高くなっているといわなければならない。」

4)「我が国が昭和60年に批准した『女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約』に基づき設置された女子差別撤廃委員会からも、平成15年以降、繰り返し、我が国の民法に夫婦の氏の選択に関する差別的な法規定が含まれていることについて懸念が表明され、その廃止が要請されているところである。」、「夫の氏を称することが妻の意思に基づくものであるとしても、その意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用しているのである。そうすると、その点の配慮をしないまま夫婦同氏に例外を設けないことは、多くの場合妻となった者のみが個人の尊厳の基礎である個人識別機能を損ねられ、また、自己喪失感といった負担を負うこととなり、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚した制度とはいえない。」

5)「本件規定は、婚姻の効力の一つとして夫婦が夫又は妻の氏を称することを定めたものである。しかし、婚姻は、戸籍法の定めるところにより、これを届け出ることによってその効力を生ずるとされ(民法739条1項)、夫婦が称する氏は婚姻届の必要的記載事項である(戸籍法74条1号)。したがって、現時点においては、夫婦が称する氏を選択しなければならないことは、婚姻成立に不合理な要件を課したものとして婚姻の自由を制約するものである。」

6)「多数意見は、氏が家族という社会の自然かつ基礎的な集団単位の呼称であることにその合理性の根拠を求め、氏が家族を構成する一員であることを公示し識別する機能、またそれを実感することの意義等を強調する。私もそのこと自体に異を唱えるわけではない。しかし、それは全く例外を許さないことの根拠になるものではない。離婚や再婚の増加、非婚化、晩婚化、高齢化などにより家族形態も多様化している現在において、氏が果たす家族の呼称という意義や機能をそれほどまでに重視することはできない。」、「世の中の家族は多数意見の指摘するような夫婦とその間の嫡出子のみを構成員としている場合ばかりではない。民法が夫婦と嫡出子を原則的な家族形態と考えていることまでは了解するとしても、そのような家族以外の形態の家族の出現を法が否定しているわけではない。既に家族と氏の結び付きには例外が存在するのである。」

7)「また、多数意見は、氏を改めることによって生ずる上記の不利益は婚姻前の氏の通称使用が広まることによって一定程度は緩和され得るとする。しかし、通称は便宜的なもので、使用の許否、許される範囲等が定まっているわけではなく、現在のところ公的な文書には使用できない場合があるという欠陥がある上、通称名と戸籍名との同一性という新たな問題を惹起することになる。そもそも通称使用は婚姻によって変動した氏では当該個人の同一性の識別に支障があることを示す証左なのである。既に婚姻をためらう事態が生じている現在において、上記の不利益が一定程度緩和されているからといって夫婦が別の氏を称することを全く認めないことに合理性が認められるものではない。」

8)「その余の上告理由である、憲法98条2項違反及び理由の不備については、その実質は単なる法令違反をいうものであって、民訴法312条1項及び項に規定する事由のいずれにも該当しない。」

(5)最高裁の多数意見は、夫婦別姓を認めていない民法750条を「合憲」と判断したものの、選択的夫婦別姓の制度について「合理性がないと断ずるものではない」と指摘して、夫婦別姓を認めるべきかどうかは国会での議論に委ねられるという見解を示した。この最高裁大法廷判決は、各界においても大きくとりあげられている。かくして、民法750条の改正の動きが速やかに進捗することが期待される※60

6 人格権の一内容たる旧姓名

(1)憲法13条における「人格権」の位置付け
 最高裁判決は、婚姻の際に「氏の変更を強制されない自由」が人格権の一内容を構成するものではなく、民法750条が憲法13条に違反するものではないと判断した。最高裁判決は、さらに広く人格権や人格的利益の観点から検討し、氏を改めることにより、①いわゆるアイデンティティの喪失感を抱くこと、②従前の氏を使用する中で形成されてきた他人から識別し特定される機能が阻害されること、③個人の信用、評価、名誉感情等に影響が及ぶことといった不利益が生ずることは否定できず、近年の晩婚化が進んだ状況の中では、これらの不利益を被る者が増加してきていることがうかがわれるとしている。その上で、これらの点についての利益は、憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとまではいえないものの、後記の憲法24条に関連し、氏を含めた婚姻及び家族に関する法制度の在り方を検討するに当たって考慮すべき人格的利益であるとした※61

(2)「氏の変更を強制されない自由」と名誉・プライバシー権侵害
 岡部喜代子裁判官による反対意見には、「近年女性の社会進出は著しく進んでいる。婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく、婚姻後に稼働する女性も増加した。」、また、「氏の第一義的な機能が同一性識別機能であると考えられることからすれば、婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。」との下りがある。
 筆者は、新しい氏の使用を強制することにより、当該個人の支障として、プライバシー侵害が生じ得ると考えている。ある事態を想定してみよう。ある職場の一例として、教職に身を置く未婚の母であるAという氏を有する女性がある年の1月に婚姻し、夫の氏であるBを称したが、2か月後離婚を余儀なくされ、婚姻前の氏Aに復氏した。婚姻中に懐胎した子が11月に出生した。また、翌年3月に至り、再婚をして夫のCを称した。
 このようなある女性の継起的な非婚、婚姻、離婚、再婚は、異常な出来事ではない。むしろ、社会全体を鳥瞰するならば、いずこでも起きうる日常茶飯事の一面に過ぎない。しかし、この継起的事態を公証制度である戸籍に反映し、戸籍上の氏の使用を職場で強要したら、どのような事態が生ずるであろうか。例えば、教室における生徒の前での教諭の氏も、また、生徒や保護者に対する通知も、その変更の都度変わるということである。確かに、最高裁判決の多数意見のように、氏名は、社会的に個人を他人から識別し特定を有する機能を有することを肯定することができ、それらの氏名が単なる個人情報にすぎないとしても、それらの情報の開示を強制することはプライバシー侵害となりうるのではないか。

(3)早稲田大学名簿提供事件※62
 筆者は、ある訴訟事件の最高裁において、上告人らの代理人として、口頭弁論をした※63。それが早稲田大学名簿提供事件である。当時、筆者は、勤務していた大学法学部の教務委員長をしていた。職務上、学生の学籍番号、氏名、住所及び電話番号の4情報の重要性を理解していた。同事件における最高裁判決では、これらの4情報が大学にとって「個人識別等を行うための単純な情報であって、その限りにおいては、秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない」とされた。しかし、筆者は、恩師である伊藤正巳裁判官の中京区前科照会事件判決※64における補足意見「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであつても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されず、違法に他人のプライバシーを侵害することは不法行為を構成する」との判断に理があると確信してきた※65。ここでも、第三者に開示される情報の質が問われなければならない。ある人はいうかも知れない。たかが学籍番号、しかし、その情報だけで、ある者の入学年度も学部学科などの内容も知り得るのである。この情報を入手することにより、友人・知人から「現役合格者じゃないんだ。あいつ2浪もしていたんだ。」、「2部じゃないか」、「政経学部に合格したといっていたけどね」などが反応としてでるであろう。また、筆者は、大学によっては、この学籍番号により推薦入学などの入学方法も知りうることも知り得ていた。だから、たかが学籍番号といえども、それが暴露されることを恐れる者にとっては、単なる個人識別を行うための単純な情報ではなく、まさしく、センシティブ情報に属し得るともいえるのである。それに対する救済方法や損害は限定され得るとしても、情報を暴露された者のプライバシー侵害に対応することも認められて然るべきである。
 本判決では、ある女性の非婚、婚姻、離婚、再婚という身分変動が、職場における戸籍上の氏の一律的な使用の強制による人格権侵害となり得るとともに、婚姻前の氏の使用禁止と婚姻後の氏の強制使用の結果として、プライバシー侵害問題となり得ることも指摘しておく。

▲top

第6 本判決の評釈

(1)事案は、極めて簡明であり、被告が教育機関であるにもかかわらず、また、過去に先例や女子差別撤廃条約が存在するにもかかわらず、それらを考慮することなく、その職場において、その被用者である教諭に婚姻前の氏名の使用を、ある時点から、一律に認めないことから生じた紛争である。

(2)まず、原告の主張は、全体としては得心できるのであるが、1993年1月の東京地裁のいわゆる夫婦別姓訴訟(関口訴訟)第一審判決の前例に照らすと(本稿「3 国立大学教官の旧姓使用にかかる訴訟事件と就業規則」)、職場における婚姻前の氏の続用を一律に禁じているということによる違法性の主張よりも、むしろ、戸籍上の氏によらなければならない物(文書)や場合とその対極をなす婚姻前の氏を使用しても差し支えない物(文書)や場合を分別して、後者に限定して、その場合にまで戸籍上の氏の使用を強制し、婚姻前の氏名の使用を禁止されることの違法性を訴えた方がアピールしやすかったのではないかと思う。また、訴状、準備書面また証拠物について何一つ目に触れていないので、正確性に欠けるやも知れないが、たとえ、被告が私立学校の経営者であるとはいえ、憲法の人権規定の私人間効力の主張も踏まえて、国際人権規約B規約や女子差別撤廃条約を主張の根拠規定としなかったことを些か残念に思うところである。

(3)本判決について検討するに、一言で評価すれば、既述したように時代錯誤的であり、2015年12月16日最高裁大法廷夫婦別姓制訴訟の判決も踏まえていないということができる。

ア まず、判決文(1)では、原告の主張を、「この権利は、戸籍上の氏と婚姻前の氏との二者択一の場面に限定したものではなく、一般的なものとして主張されているものと解される。」とし、(2)では、「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するというべきものである(最高裁判所昭和63年2月16日第三小法廷判決・民集42巻2号27頁参照)」、「氏名が上記の識別特定機能、個人の人格の象徴等の性質を有することに照らせば、氏名を自ら使用することが、いかなる場面で、いかなる目的から、いかなる態様で妨害されたとしても法的な救済が一切与えられないとすることは相当ではなく、その意味で、氏名を自ら使用する利益は、民法709条に規定する法律上保護される利益であるというべきである。」、「また、氏は、氏名を構成する要素であり、それを自ら使用する利益についても、上記と同様の意味で、法律上保護される利益ということができる。」と一般論を展開する。

イ 判決文(3)と(2)の論理整合性が理解しづらい。また、部分否定を用いて「その意味で」としているので、なおさらである。端的に、両者は、法律上保護される利益であるが、できることならば、いかなる場面で、いかなる目的から、いかなる態様でその異同が生ずるというだけで十分と考えられる。

ウ 判決文(3)の「婚姻前から」で始まる第2文も部分否定であり、いかなる場合に法的救済が与えられるかの判断基準が示されていないのみならず、婚姻前の氏の識別機能について誤解がある。婚姻前の氏は、婚姻時まででなく婚姻前後を通じて、識別特定機能を有しているということである。また、判決文(3)の「したがって」で始まる第3文は、「通称として婚姻前の氏を使用する利益は、人格権の一内容にまでなるか否かは措くとしても、少なくとも、上記の意味で、法律上保護される利益であるということができ、これを違法に侵害した場合には不法行為が成立し得ると解するのが相当である」とするが、この判断は(2)の「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するというべきもの」との言明と齟齬があるといえるのではないか。

エ 判決文(3)の括弧内の表現が、本判決の核心である。原告は、「通称として婚姻前の氏を使用する利益は、これらの信用等を維持する利益」を有するのであり、それは、婚姻前後を通じて戸籍上の氏とは独立かつ固有の利益を有し保護に値するというのが、婚姻前の氏名を婚姻後においても使用することをその主意として主張しているのである。
 ところが、判示によれば、「婚姻によりこれらの信用の基礎となった氏が変更されれば、それによって築かれた信用等にも影響が及ぶところ」として、婚姻前の氏が戸籍上の氏の変更による影響を受けて、いわば支配関係または服従関係が生ずると理解されている。このことは、「通称として婚姻前の氏を使用する利益は、上記の氏の変更による影響を受けた後の信用等を維持する利益」と記載されていることから知り得る。このような理解は、通称としての婚姻前の氏と婚姻後に使用する氏を法律上保護される利益の評価において別異に取り扱うという前提から生ずるのである。無論、その前提から出てくる結論は、「この利益が法律上保護される利益に当たるか否かは、上記の影響を受けずに信用等を維持する利益が法律上保護される利益に当たるか否かと直結するものではない」ということである。

オ 判決文(4)のアにおける職場における戸籍上の氏の戸籍制度という公証制度における位置づけは、本稿では、「1 国際結婚と渉外戸籍」、「4 家族法改正と選択的夫婦別氏論」で論じたように、家制度のイデオロギーを貫徹するために、「戸籍上の氏」と「呼称上の氏」を二元化し、前者をもって後者を支配する体制維持に通ずるものに他ならない。マイナンバーも導入された昨今、戸籍上の氏が婚姻前の氏に比して、より高い個人の識別特定機能を有しているという判断に、いかなる合理性、必要性があるといえようか。

カ そもそも、婚姻後に通称として婚姻前の氏を使用する利益と婚姻前に戸籍上の氏のみを自己を特定するものとして使用してきた期間における当該氏を使用する利益を比較することは、無益である。原告は、先にも述べたように、通称としての婚姻前の氏を使用することは、新たな戸籍上の氏とは、独立した意義、異なる価値、独立した利益を有すると主張しているのである。質の異なる利益や価値の大小をどうしたら比較できるというのであろうか。

キ 判決は、社会において、婚姻前の氏の使用が認められる範囲が広がる傾向にあることが認められるとしたが、これらのように婚姻前の氏の使用が広がっていることを踏まえても、なお、いまだ、婚姻前の氏による氏名が個人の名称として、戸籍上の氏名と同じように使用されることが社会において根付いているとまでは認められないとするので一言する。
 「5 夫婦別姓制訴訟(最高裁大法廷2015年12月16日判決)」で取り上げたように、最高裁は、別姓制訴訟において、上告人の請求を退ける理由として、多数意見は、氏を改めることによって生ずる上記の不利益は婚姻前の氏の通称使用が広まることによって一定程度は緩和され得るとした。しかし、岡部喜代子裁判官らによる反対意見によれば、「近年女性の社会進出は著しく進んでいる。婚姻前に稼働する女性が増加したばかりではなく、婚姻後に稼働する女性も増加した。」、「氏の第一義的な機能が同一性識別機能であると考えられることからすれば、婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。このような同一性識別のための婚姻前の氏使用は、女性の社会進出の推進、仕事と家庭の両立策などによって婚姻前から継続する社会生活を送る女性が増加するとともにその合理性と必要性が増しているといえる。現在進行している社会のグローバル化やインターネット等で氏名が検索されることがあるなどの、いわば氏名自体が世界的な広がりを有するようになった社会においては、氏による個人識別性の重要性はより大きいものであって、婚姻前からの氏使用の有用性、必要性は更に高くなっているといわなければならない。」とした。
 要するに、最高裁は、夫婦別姓を認めていない民法750条を「合憲」と判断するために、「婚姻前の氏の通称使用が広まることによって一定程度は緩和され得る」、また、「婚姻によって取得した新しい氏を使用することによって当該個人の同一性識別に支障の及ぶことを避けるために婚姻前の氏使用を希望することには十分な合理的理由があるといわなければならない。」ことを当然の前提としたのである。
 であるとするならば、下級審は、この最高裁の婚姻前の氏の通称使用にかかる認識と判断を尊重すべきであると理解する。でないとするならば、別姓制も通称使用も認められないという、いわば踏んだり蹴ったりの事態となるからである。女子差別撤廃条約16条1(g)が求めている適当な措置(選択的別姓制)の実現が達成できないとすれば、少なくとも、その緩和策たる通称使用が認められて然るべきである。

ク 以上の考慮から、被告が職場において通称使用を全面的に認めず、被告の行為をもって不法行為と認めることはできないとしたことには得心できない。さらに、判決文(5)に「仮に、通称として婚姻前の氏を使用する一般的な利益が法律上保護される利益に該当するのみならず人格権の一内容として保護されるものであったとしても」、職場が関わる場面で戸籍上の氏の使用を求める行為をもって、違法な人格権の侵害であると評価することはできないとの判断にも更なる疑問が生ずる。原告は、戸籍上の氏の強制的な一律使用を人格権の対象としたが、戸籍法上の氏の開示による原告のプライバシー侵害を考慮の対象とする余地があったと考える。氏は、一面、個人の呼称に過ぎないのであるが、それが戸籍制度と結び付くことによりその人の出自が露わとなり、それが公に晒されることにより、その人に身分変動とその内容も暴露される危険が大いにある。必ずしも婚姻後の氏を公にしなくとも、殊更に職場の業務遂行に支障や障害をもたらさないときには、伊藤正己裁判官の前科照会事件判決における「他人に知られたくない個人の情報は、それがたとえ真実に合致するものであっても、その者のプライバシーとして法律上の保護を受け、これをみだりに公開することは許されない」との補足意見が想起されるのである。

(4)筆者は、被告における就業規則の内容を詳細には承知していない。しかし、当事者の主張するところによれば、「教職員は、氏名、住所又は家族等の変更、異動があった場合は、速やかに届け出なければならない」旨のようである。

ア 原告は、「被告は、本件就業規則9条をもって戸籍上の氏の使用を強制する根拠とするようであるが、本件学校においては、給与、保険及び年金等の取扱いのために教職員の戸籍上の氏名を把握する必要は認められるところ、同条は、そのような必要性から事務手続上の届出義務のみを定めたものにすぎず、教育や研究という業務の場面で婚姻前の氏を通称として使用することを一律に禁じる趣旨まで含むものとは言い難い。」という。

イ これに対して、被告は、「本件就業規則9条は氏名の変更を届け出る旨規定しているが、これは、被告の業務遂行にとって教職員個人の特定・管理が必要であることから設けられた規定であり、届出がされた場合は、届出がされた氏名に従って表記・呼称することが当然に予定されているものであり、被告が原告に対し、戸籍上の氏の使用を求めたことは、本件就業規則9条に基づく措置である。」と主張する。要するに、婚姻前の氏を通称として使用することについての規定が存在しないということに他ならない。

ウ 判決を読むに、なにゆえに、「教職は多数の生徒と接し、その教育等を行うものであるから教職員の個人の特定は重要であり、また、被告においてもその業務に当たり教職員を識別、特定して、管理することは必要であると認められるから、被告において教職員の使用する氏について一定の行為を求める権限がないとは認められない」といい切れるのかが理解できない。教職員の特定、識別が重要であるとしても、それらは、通称の婚姻前の氏を使用しても十分できるのであるし、その使用により管理業務に何らの支障や障害をもたらさない。とするならば、管理の目的と必要な範囲において戸籍上の氏の使用をすれば良いだけのことである。

(5)今一度、1980年にわが国が批准した女子差別撤廃条約に戻らなければならない。確かに、民法改正要綱に選択的別姓制として盛り込まれたが、35年を経た今でも改正の手続がなされていないことは事実である。しかし、国際条約が締約国の関係者に求めているのは、その条約の遵守の責務を裁判官に求めているということである。この要請に対しては、1991年東京地裁の関口判決が判示したように、「通称名であっても、個人がそれを一定期間専用し続けることによって当該個人を他人から識別し特定する機能を有するようになれば、人が個人として尊重される基礎となる法的保護の対象たる名称として、その個人の人格の象徴ともなりうる可能性を有する。」とすべきではないか。
 でないとするならば、わが国に司法は、政府と立法府の怠慢、不作為にあぐらをかいて、既に国際社会が実現している女性差別撤廃から益々遠のくことになることは必死であろう。

▲top

【エピローグ】
 40年前になるが、フランス国ストラスブール第三大学(現在名:ロベール・シューマン大学)に留学していた。当時はまだEUは成立していなかった。その後、議事堂(Louise Weiss Building)が建設された。1959年にヨーロッパ人権裁判所は創設されていたが、その建物を見た記憶がない。その後、数回、Strasbourgを訪問する機会があった。議事堂の渡り廊下から見た、欧州人権裁判所である※66

議事堂の渡り廊下から見た、欧州人権裁判所

(掲載日 2017年1月26日)

» 判例コラム アーカイブ一覧