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文献番号2015WLJCC013
高知県立大学・高知短期大学
教授 小林直三
1.はじめに
東京都立中学校等の教員らが、事前に、それぞれの学校の校長から卒業式のときに国旗に向かって起立して国歌を斉唱するように職務命令を受けていたが、しかし、卒業式の国歌斉唱時に起立しなかった。そのため、それぞれ、停職3月と停職6月の懲戒処分を受けたところ、これら教員らが各懲戒処分の取消しとその懲戒処分に伴う精神的苦痛に関する国家賠償請求を行った。
第一審である東京地裁判決※2では、3月の懲戒処分の取消しを認めたが他の請求は棄却した。本件は、その控訴審判決である。
2.判例要旨
まず、「本件各職務命令は……慣例上の儀礼的な所作をとるよう命じたものであ」り、「直ちに控訴人らの個人的な思想及び良心の自由を侵害するものとまでは認められない」とした。また、「本件各職務命令は控訴人らに対して発せられたもので……その名宛人ではない子どもたちの思想及び良心の自由や教育を受ける権利を侵害するとの理由で本件各職務命令の取消しを求めることはできない」とした。
ただし、懲戒処分の内容に関して、停職3月の処分を受けた教員については、問題とされた「職務中の一連の行動等は」、本件「不起立行為の前後における問題ではないから」、これらを理由に「処分の加重を根拠付けることはでき」ず、過去の処分歴も最高裁で違法なものとして取り消されており、その最高裁以前の本件処分時では形式的に有効なものであったにしても、本件停職3月の処分が適法になるわけではないとし、原審の判断を支持した。
また、停職6月の処分を受けた教員について、「停職処分は……直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶ処分であり、将来の昇給等にも相応の影響が及ぶから、過去に同様の行為が行われた際に停職処分がされていたとしても、懲戒権者において当然に前の停職処分よりも長期の停職期間を選択してよいということにはならないのであって、停職期間の選択については、過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為の前後における態度等をも踏まえて、学校の規律や秩序を保持する必要性と処分によって被処分者が被る不利益の内容との権衡を十分に検討して、当該停職期間を選択することの相当性や合理性を基礎付ける具体的な事情が認められることが必要」とした。そして、本件「職員の懲戒に関する条例によれば、停職期間の上限は6月とされ」、6月の停職処分を認めたなら、「同種の不起立行為を行った場合に残されている懲戒処分は免職だけであって、次は地方公務員である教員としての身分を失うおそれがあるとの警告を与えることとなり、その影響は……量的な問題にとどまるものではなく……極めて大きな心理的圧力を加える結果になるものであるから、十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」とし、本件停職6月の処分を受けた教員に関しては、過去の行為のいくつかは前回の3月の「停職処分において考慮されている上……以前に行われた掲揚された国旗を下ろすなどの積極的な式典の妨害行為ではなく、国歌斉唱の際に着席したという消極的な行為であ」り、「特に式典が混乱したこともないから」、過去の停職3月の処分を「加重しなければならない個別具体的な事情は見当たら」ず、「同種の行為を繰り返していることを考慮したとしても」、前回の「3月の停職期間を超える処分を科すことを正当なものとすることはできない」とし、停職6月の処分を取り消した。
更に、国家賠償請求に関して、都教委は非違行為への対応のために表を用いて処分量定を作成しており、そこでは「懲戒処分を受けたにもかかわらず、再び同様の非違行為を行った場合は、量定を加重すると定められている」が、しかし、「表に記載された処分量定は、あくまで標準であり、個別の事案の内容や処分の加重によっては、表に掲げる処分量定以外とすることもあり得るとされ」、「体罰の事案についてみると……機械的、一律的に処分を加重していくという運用はして」おらず、したがって、処分量定の加重は必要的なものではないとした。しかも、入学式や卒業式での「不起立に対して……機械的に一律にその処分を加重していくとすると、教職員は、2、3年間不起立を繰り返すだけで停職処分を受けることになってしまい、仮にその後にも不起立を繰り返すと……免職処分を受けることにならざるを得ない事態に至って、自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては、自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり、そのような事態は、もともとその者が地方公務員としての教職員という地位を自ら選択したものであることを考慮しても、日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながるものであり、相当ではないというべきである」とした。そして、そうしたことを踏まえれば、本件教員の「個人的な思想及び良心の自由に対しても影響を与えるものであることを十分に考慮し……本件各処分の対象となった不起立等の態様や、不起立によって式典にどのような影響が生じたのか等を個別具体的に認定し、想定される処分がなされた場合に生ずる個人的な影響や社会的な影響等をも慎重に検討した上で、それぞれの非違行為にふさわしい処分をすべきものであった」とした。
しかし、本件では、それらに関して「十分に考慮した上で慎重に検討されたことを認めるに足りる的確な証拠はな」く、「本件各処分には……裁量権の範囲を逸脱した違法があるものといわざるを得ず」、都教委関係者が当然に理解しておくべき国会審議「答弁内容等に照らすならば……機械的かつ一律に処分を加重することを許容するものではないことは明らかであるから……都教委には、本件各処分に際して過失があったものといわざるを得ず、国賠法上も違法性が認められるというべきである」として、本件各教員の国家賠償請求を認めた。
3.検討
本件は、本件と同種の職務命令違反に関して、戒告以上の懲戒処分に慎重な判断を求めた最高裁判決※3の判断枠組みに従ったものではある。しかし、本件の特徴は、具体的な事実の検討を進めることで、停職処分の取消しだけではなく、国家賠償請求も認めたことにある。
本件は、一方では、「本件各職務命令は……慣例上の儀礼的な所作をとるよう命じたものであ」り、「直ちに控訴人らの個人的な思想及び良心の自由を侵害するものとまでは認められない」としている。しかし、他方では、入学式や卒業式の国歌斉唱の際の不起立のために、少なくとも免職処分を受ける事態は、「もともとその者が地方公務員としての教職員という地位を自ら選択したものであることを考慮しても、日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」としている。そして、そのことを十分に考慮して、「不起立等の態様や、不起立によって式典にどのような影響が生じたのか等を個別具体的に認定し、想定される処分がなされた場合に生ずる個人的な影響や社会的な影響等をも慎重に検討した上で、それぞれの非違行為にふさわしい処分をすべき」としている。その上で、それらを十分に考慮して慎重に検討されなければ違法であるとし、更には、機械的かつ一律に加重すべきでないことは明らかであったとして、都教委の過失までも認定し、停職処分の取消しだけではなく、国家賠償請求をも認容している。
つまり、一般論としては職務命令で国歌斉唱時に起立を求めることは思想及び良心の自由を侵害しないけれども、その違反に関して、少なくとも免職処分に至る場合には思想及び良心の自由の侵害可能性が生じるとしたのである。しかも、免職処分に繋がる停職処分に関しても慎重な判断を求め、懲戒処分にあたっての裁量権の範囲を著しく限定したのである。実際、本件判決の考え方に従えば、たんに不起立や国歌斉唱の拒否などの消極的行為に留まる限り、実質的に停職処分等は不可能に近いように思われる。そして、本件が、懲戒処分の取消しだけでなく国家賠償請求も認めたことは、国歌斉唱等の職務命令違反に関する今後の行き過ぎた対応に警鐘を鳴らすものとして、高く評価できるものと思われる。
ただし、本件は、国歌斉唱等を求める職務命令やその違反が懲戒事由に該当すること自体を否定したわけではない。また、個人の思想及び良心の自由の視座からの議論にも、ある種の限界があるものと思われる。そこで、以下では、この問題に関して、米国のJ・ルーベンフェルドの議論※4を踏まえた別の視座から言及してみたい。
ルーベンフェルドによれば、ある特定の行為を禁止する点では、たとえば妊娠中絶の禁止も殺人の禁止も同じである。しかし、何を生み出すかという点からみれば、まったく異なるものになる。すなわち、殺人の禁止は殺人という特定の行為ができなくなるに過ぎないが、妊娠中絶の禁止は、それによって「母性」を生み出し、その母性を女性たちに押し付けるのである。つまり、規制には、たんに特定の行為を禁止するに留まらず、それによって特定のアイデンティティを形成し、押し付け、そして、人びとを標準化、画一化する積極的な生産的効果を生じるものもあるのである。ルーベンフェルドによれば、その種の規制は、民主主義から導き出される反全体主義原理に反するものであり、また、米国の判例が違憲だとしてきたものである。
以上のルーベンフェルドの見解を踏まえて考えた場合、国歌斉唱等を強制することも、たんに教員が斉唱拒否や不起立をすることができないというだけではなく、それによって、特定のアイデンティティ形成やその押し付け、そして、標準化、画一化を行うものと理解できるのではないだろうか。しかも、それは、職務命令の直接的な対象である教員だけではなく、(本件では「名宛人ではない子どもたちの思想及び良心の自由や教育を受ける権利」に関する主張は否定されているが)式典に出席する児童や生徒、あるいはその家族も含めた標準化、画一化を行うものといえるのではないだろうか※5。
このように職務命令の積極的な生産的効果に着目した場合、国歌斉唱等を求める職務命令に関する本件判決の理解は、些か不十分なものと考えられる※6。
また、本件の考え方を進めれば、戒告処分であっても昇給等で不利益を被るおそれがあり、かつ、十分に強い心理的圧迫が認められるだろうから、戒告処分も含めた懲戒処分そのものに慎重な判断が求められるべきということになるだろう。そうだとすれば、たんなる不起立や国歌斉唱拒否などの消極的行為に留まる限り、実質的に懲戒処分は下し得ないと考えた方が合理的であったように思われる。
4.おわりに
本件は、懲戒処分にあたっての裁量権の範囲を著しく限定し、過大な懲戒処分を取り消したばかりか、国家賠償請求まで認容したものである。それは、国歌斉唱等の職務命令違反に関する今後の行き過ぎた対応に警鐘を鳴らすものとして、高く評価できるものと思われる。しかし、国歌斉唱等を求める職務命令の積極的な生産的効果に着目した場合、そうした職務命令に関する本件判決の理解は、些か不十分であったように考えられる。
ところで、本件以後のことではあるが、近時、文部科学大臣から国立大学長に卒業式等の式典での国歌斉唱等の要請が行われた。そして、今回は直接的には国立大学のみが対象であったが、将来的には国立大学のみに限定されるものとは考え難いだろう。その点でも、大学と高校までの教育等のあり方は、ある程度、相対化してきているものと思われる。そうだとすれば、もし、これまでどおり、高校までの式典等で国歌斉唱等が教員に強制されるとすれば、(単なる大学長への要請に留まることなく)同様のことが大学でも妥当することになりかねないだろう。
したがって、もし、われわれが大学での式典等で国歌斉唱等を教員に求める光景に違和感をもつとすれば(あるいは、そうした光景が全体主義的なものに感じるとすれば)、その点からも、高校までの式典等で国歌斉唱等を教員に強制し得るのかを再考しなければならないのではないだろうか※7。
(掲載日 2015年8月3日)