ウエストロー・ジャパン
閉じる
判例コラム

便利なオンライン契約
人気オプションを集めたオンライン・ショップ専用商品満載 ECサイトはこちら

判例コラム

 

第30号 「遠山の金さん」の見得を切る所為は誰のものか? 

~俳優のしぐさに対する著作権の所在が争われた事例~

文献番号 2014WLJCC012
北海道大学大学院法学研究科
教授 田村善之

1 問題の所在

テレビドラマの時代劇にあっては、「将軍」やら「副将軍」やらの政務を司る者が、序盤や中盤においてはその身分を隠して市井の人に紛れて事件の真相を探り、最終盤において、証拠がないと開き直る悪人に対して正体を明かし、自らの見聞に基づいて勧善懲悪を実現するというパターンの番組が伝統的に人気を博している。本件で問題となった「遠山の金さん」シリーズもその一つであり、江戸町奉行の遠山金四郎が「遊び人の金さん」に扮して事件の実情を探り、悪人との立ち回りのシーンで片肌を脱いで桜吹雪の刺青を見せつけておいたうえで、後に遠山奉行の管轄するお白州に引っ立てられてきた当の悪人達が悪事の証拠がないなどと開き直るのに対して、再度、片肌を脱いで奉行自身が「遊び人の金さん」であったことを明かして観念させる、というパターンで各話が構成されている。そのなかでも極めて重要な場面である片肌脱ぎの所為が俳優の創作にかかるものである場合、その仕種に対して権利を主張できるものは俳優なのであろうか、それとも当該映画(著作権法上はテレビ番組も「映画の著作物」として扱われる)を制作した制作会社なのであろうか。
東映株式会社が制作したテレビ番組「遠山の金さん」の複数のシリーズにおいて遠山金四郎を演じた松方弘樹氏が、その後、東映とは関係のない会社の製造販売するパチンコ機「CR松方弘樹の名奉行金さん」において「名奉行金さん」を演じたために、東映が当該パチンコ機の製造販売会社に対して提起した著作権侵害訴訟においては、まさにこの点が争点となったが、東京地判平成26・4・30平成24(ワ)964 [CR松方弘樹の名奉行金さん]は著作権侵害を肯定した※1

2 判旨の紹介

本件において著作権侵害が主張された点は多岐にわたるが、裁判所は、まさに見得を切るシーンである「立ち回りでの桜吹雪披露シーン」と「お白州での桜吹雪披露シーン」に限って、以下のように述べて著作権侵害を肯定している※2(なお、判文中、「原告松方映像」とあるのは原告東映が著作権を主張する松方弘樹氏主演の「遠山の金さん」シリーズにかかる映像であり、「被告金さん物語」とあるのは、被告製造販売にかかるパチンコ機の映像である)。

「原告松方映像6-1のお白州での桜吹雪披露シーン(甲52の1)及び被告金さん物語映像No.40の桜吹雪披露シーン(甲49の1)において、桜吹雪の刺青を見せる際に、①まず身体右側を画面前に向け、右腕を右袖の中に入れ、②身体右側を画面前に向けた姿勢で、右手の5本の指を開いた状態で右手の甲が外になる向きで、右手を右襟元から出し、そのまま右手を下ろし(被告金さん映像No.40の桜吹雪披露シーン(甲49の1)においては、下ろした右手を拳にしているか否かは画面上明らかでない。)、③その後、左後方を振り返りながら、右腕を振り上げ、右肩及び右腕全体を着物から出し、前を向きながら、右腕を振り下ろして片肌を脱ぎ、右肩の桜吹雪の刺青を披露する、④人物(遠山奉行)の背景には、襖の不規則な斜め縞模様が映されており、人物の衣装は裃であり、カメラワークは、終始人物を中心に捉えている、という点は、見る者に相当強い印象を与える映像であり、この点の一致は、両者の与える印象の類似性に強い影響を与えている。
これらの映像表現は、脚本を映像化する映画の著作物の製作過程において新たに加えられた創作的な表現であり、原告東映の保有する原告松方映像6-1の著作権によって保護されるべき創作性ある表現の類似といえる。」

ここで、裁判所が被告金さん物語映像の該当箇所から原告松方映像の創作的表現の本質的特徴を直接感得しうると判断した際に主として考慮しているのは、両映像において、俳優である松方弘樹氏の桜吹雪の刺青を披露する所作が共通していることである。しかし、このような俳優の工夫にかかる実演に関してまで、映画製作者である東映が著作権を主張しうる創作的表現であるとする結論には、以下、詳述するように、疑問を覚えざるを得ないところがある。

3 演技に対する「監督の了解」をもって監督が著作者となるのか?

本判決が松方弘樹氏の実演について原告東映が著作権を主張しうる創作的表現に含まれるとする根拠は、それが「監督の了解」を得た演技だからであるとする理論である。本判決は、その理を以下のように説く。

「実演家である松方弘樹の実演をどのような演出、美術、カメラワークの下で録画し、映像として表現していくかについては、実演家の演技が映像表現に直結しているわけではなく、映画の著作物の著作者(著作権法16条)が関与しており、著作者が映画の著作物の製作に参加することを約束しているときは、映画製作者に著作権が帰属するものである(同法29条1項)。このように、実演家が考案した演技であっても、これを当該映画における演出、美術、カメラワークの下で映像化した場合には、当該映画自体については、映画製作者が著作権を有するものであり、本件において、原告東映は、松方弘樹の実演の映像を含む原告松方映像6-1全体について著作権を有するものである。
映画の著作物の著作権は、その創作的な表現を考案したのが当該映画の著作物の著作者(例えば監督)であるか、それ以外の、例えば俳優、助監督、美術、大道具、小道具、衣装などの関与者であるかを問わず、映画製作者に帰属するのであって、撮影担当者の考案した(最終的に監督の了解を経た)カメラワークを創作性の判断において特に除外しないのと同様、俳優の考案した(最終的に監督の了解を経た)演技を創作性の判断から除外する必要はない。
前記のとおり、原作や脚本に由来する部分など、映画の著作物が二次的著作物となる場合において原著作物に由来する部分については映画製作者の著作権は及ばないが(著作権法16条)、映像を離れて実演家の演技に著作権が発生するわけではないから、原作者や脚本家のような原著作者の権利が実演家に留保されることはない。」

しかし、このような「了解」に基づいて他人の創作に対して、あたかも自己が創作したかのように扱い著作権を帰属させる法理は、従前の裁判例には見られない本判決独自の構成であり、著作権法の解釈として採用しうるものではない。
著作者とは、「著作物を創作する者」をいうところ(著作権法2条1項2号)、ここにいう「著作物」とは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」を指すから(同2条1項1号)、著作者とは、創作的な表現をなした者ということになる。物理的に創作的な表現をなしていない者は、別途、職務著作(著作権法15条)が適用される場合を除き、著作者たりえない。そこに本判決のいうような「了解」の入り込む余地はないというべきである。
かえって、本判決のような理解の下では、「了解」なる概念を媒介に、著作者たりうる地位が実際に創作的な表現をなした者から「了解」した者に移転することになりかねない。このような取扱いは、著作者の地位の移転を認めない著作権法の規律(著作者人格権の一身専属性を定める59条を参照)を蝉脱することになりかねない。
従前の裁判例では、本件のように俳優の演技と映画の著作物の著作権との関係が問題となった事例ではないが、雑誌の企画として特定のシチュエイションを演出した上で撮影された写真に関して、誰が著作者となるのかということが争われた事例がある(東京地判昭和61・6・20判タ637号209頁[SMファン])※3。そこでは、雑誌編集者がSM写真のテーマの企画、モデルの選定を行い、編集者、縛り師、カメラマンらが話し合いながらシチュエイション、縛り方等を決め、縛り師がモデルを縄で縛ったという事情が認められるとしても、構図、カメラアングル、シャッターチャンス等を選択、調整し、シャッターを押した者がカメラマンである以上、当該SM写真に関する著作者はカメラマンである、と判断された。この事件では、編集者または縛り師はカメラアングル、ライティング等について要望ないし注文を出すこともあつたと認定されているから、最終的に採用された写真に関してはカメラマンの創作の成果を編集者が「了解」していたと認定しうる事案であったのかもしれないが、そのような事情は著作者の判別になんらの影響も与えていないのである。
これに対して、本判決は、自身の立場を補強するために、次のような理由付けも掲げている。

「撮影担当者の考案した(最終的に監督の了解を経た)カメラワークを創作性の判断において特に除外しないのと同様、俳優の考案した(最終的に監督の了解を経た)演技を創作性の判断から除外する必要はない。」

たしかに、実際にカメラを物理的に動かしている者がひたすら監督の指示に従って位置決めを行い、カメラを回しているために、そこに撮影者自身の創作性は何ら関与していないという事態はありうるだろうが、そのような例外的な事案を超えて、撮影担当者の撮影一般に、さらには俳優の演技をして「監督の了解」があることを理由に、あたかも監督が著作者であるかのように取り扱うことは許されない。
以上のような本稿の考察に対しては、本判決を支持する立場からは、次のような反論がなされるかもしれない。すなわち、本判決は、俳優の演技や撮影担当のカメラワークに対して「監督の了解」のある場合に、その著作権が映画の製作者に帰属すると言っているだけであり、別に監督を著作者として扱ったわけではない、という反論である。
しかし、著作権法29条が適用されて映画製作者に原始的に帰属することになるのはあくまでも映画の著作物の著作者の著作権であるということは条文の文言上、明らかであり、しかも、そこにいう「映画の著作物の著作者」とは、別途、著作権法16条により「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」に限定されているのである。
したがって、映画製作者に著作権が原始的に帰属するためには、「映画の著作物の著作者」と評価されることが必要である反面、逆にその要件さえ満たせば、特に「監督の了解」などなくとも、これらの者の創作にかかる著作権は原始的に映画製作者に帰属することになるのである。しかし、そのためにはあくまでも、俳優や撮影担当の貢献が「映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者である」ことが必要である。「監督の了解」を媒介項とする本判決の理屈は、通例、全体的形成に寄与した者であり、ゆえに大半の事例で映画の著作物の著作者となる「監督」を媒介項として用いることで、俳優や撮影担当等、映画に関わる者全ての創作活動について、全体的形成に寄与しているか否かを問うこと無く、映画製作者に帰属させようとするものである。そのことは、法的な効果としては、これらの者の創作行為についても監督を著作者と扱うことと同義である。
いずれにせよ、本判決の取扱いは、「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当して」その映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者を映画の著作物の著作者と定義することで、「監督」と「撮影」担当者を書き分けるとともに、そのなかで「全体的形成に創作的に寄与した者」のみを映画の著作物の著作者とする著作権法16条の規律を無にするものである、といえよう。

4 映画に関する全ての著作権を映画製作者に帰属させなければならないのか?

あるいは、本判決が以上のような論理的な無理を冒した背景には、映画の著作物に関わる著作権は全て映画製作者に帰属させなければならないという判断が存在するのかもしれない。
しかし、著作権法16条と29条1項によれば、「制作、監督、演出、撮影、美術等を担当」した者全員が「映画の著作物の著作者」となるわけではなく、「全体的形成に創作的に寄与した者」の著作権のみが映画製作者に帰属するに過ぎない。しかも、16条によれば、「映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者」は、「映画の著作物の著作者」から外されている。したがって、これらの映画の著作物に利用されてはいるが「映画の著作者」が創作したわけではない著作物の著作者(=クラシカル・オーサー)の権利は当該著作者に留保されている。このように、著作権法自体が、映画の著作物に関わる著作権の全てを映画製作者に帰属させるという方針を採用していないことは明らかである。
さらにいえば、本判決と異なり、松方弘樹氏のような俳優の創作にかかる演技に関してまで映画製作者の著作権を主張し得ないと帰結したところで、それで映画製作者の保護に悖るところはないというべきである。
俳優の演技を自己の創作的表現であると主張できなかったとしても、映画製作者は、それらの演技をどのような背景の下、どのような構図でカメラに収めるのか等のカメラワークに関して、監督、撮影担当等の全体的形成に創作的に寄与した者が施した創作的な表現を根拠に著作権を主張することができる。本件でいえば、原告東映は、松方弘樹氏の演技に関して著作権を主張し得なかったとしても、それを映写した原告映像に関して著作権を主張しうることは明らかであり、ただその保護範囲を画するに際して、松方弘樹氏の演技の部分を根拠として侵害としうる範囲(=類似性)を拡張することができなくなるに止まる。原告映像を複写したものはもとより、原告映像と同様のカメラワークで撮影された映像に関しても著作権を主張しうることに変わりはないのである。
かえって、本件被告映像のような松方弘樹氏の演技のみが共通している著作物に対してまで原告の権利行使を認めてしまうと、松方弘樹氏は自己が創作した演技であるにも関わらず、以降、それを原告以外の者のために用いることは(原告の許諾がない限り)許されないことになる。このような取扱いは、原告が創作したわけでもなく、「映画の著作物の著作者」ともいいがたい松方弘樹氏の創作した表現について、職務著作制度を媒介することなく、映画製作者である原告に帰属させるものであり、著作権法が予定していない保護を原告に享受させるものとして到底許されるものではないと考える。

5 実演家の有する著作隣接権との関係

そもそも松方弘樹氏の演技による貢献に対しては、著作権法上は、同氏を実演家として、その「実演」に対して著作隣接権を与えるという形で保護することが予定されている。「演技」に関する創作性に基づいて映画の著作権者が著作権を行使することを認めてしまうと、著作隣接権に関する著作権法の規律に抵触する事態をもたらすことになりかねない。
抵触は二つの場面で生じる。
第一に、実演について著作隣接権を有する者は実演家とされており、著作権法29条1項のような規律がなされていないにもかかわらず、著作権法29条1項により映画の製作者に原始的に帰属する映画の著作権の行使を認めてしまうと、著作権法が予定している権利の原始的帰属のルールを歪めることになる。
第二に、実演家の有する著作隣接権は、当該実演の録音録画禁止権(91条1項)か、もしくは当該実演の放送、有線放送禁止権(92条1項)、送信可能化禁止権(92条の2第1項)を柱とするものに限定されているのに対し、著作権は、複製禁止権(21条)、翻案禁止権(27条)、二次的著作物の利用禁止権(28条)という形で、当該実演の録音録画に止まらず、類似の範囲内で権利行使をすることが可能であり、その利用形態も、複製禁止権(21条)、放送、有線放送、送信可能化以外の上演、上映、その他の各種無形的な利用禁止権(22条~25条)にまで広く及ぶことになっている。したがって、安易に「演技」について著作権の主張を許してしまうと、著作権法が著作隣接権の対象となる行為を限定した趣旨に悖る事態を招来することになる。

このように考えると、「演技」に関する保護は、定型的に著作隣接権に委ねることとするのが、著作権法の趣旨に適った取扱いであるように思われる。かりに「演技」について著作権が発生することを認める立場を採用するとしても、それは極めて例外的な場合に限られるというべきであろう※4

(掲載日 2014年8月4日)

» 判例コラムアーカイブ一覧