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判例コラム
(旧)コラム

 

第37回 戦争の記憶

東海大学法学部教授
西山 由美

ハンブルクの住宅街を歩いていると、玄関近くの舗道に約10平方センチメートルの金色のプレートをよく見る。そこに刻まれた氏名と生年月日の下には、たとえば次のように記されている。「1940年に連行される。1944年にトレブリンカにて殺害される」。このプレートは、住んでいたこの家からゲシュタポによって連行され、強制収容所で亡くなったユダヤ人を悼むために舗道に埋め込まれたものだ。同じ姓名の複数プレートは、生年月日から見て両親と子どもたちのものであろう。死亡地・死亡年月日が「???」となっているのは、いつどこで亡くなったかわからないのであろう。日本で言えば団塊世代にあたる裁判官は、「われわれの父親たちは、600万人ものユダヤ人を直接・間接に殺したんだ、信じられない」と言う。

同じハンブルクの州高等裁判所前にはモニュメントがある。ここを案内してくれた別の戦後生まれの裁判官は、「ここはかつて、かの悪名高い民族裁判所のあったところ。どれほど多くの反ナチの人たちが、彼らから死刑を宣告されたことか」と説明してくれた。今、ここに勤務する裁判官たちは、かつて十分な審理も経ずに処刑された人たちを悼むこのモニュメントの前を毎朝通って、裁判所に入ることになる。

ここで注視したいのは、ドイツの現役世代が、戦争の当事者を「われわれの父親たち」「彼ら」としている点だ。世代が移り、当事者意識が薄れていくのは当然だろう。私たち日本人も同じだ。しかし「戦争の責任」に対する感覚は薄れても、「戦争の記憶」を目に見える形で残していくことは大切だ。

ミュンヘン郊外のダッハウという小さな町は、かつての強制収容所を一般公開している。「働けば自由になる」と掲げられた門、収容者たちが詰め込まれた小屋、独房等を、見学者は順路に従ってたどっていく。60数年前、ここでどんな声が響き、どんな臭いがしたか想像すると、足がすくむ。また、ドイツの高校生用歴史教科書は、ドイツのポーランド侵攻に関するドイツ・ポーランド両国の歴史学者の共同研究にもとづき、編纂されたという。この共同研究は冷戦時代に始まったため、イデオロギーの違いもあり、作業は困難をきわめたという。

戦争の記憶のとらえかたについて、同じ敗戦国のドイツと日本とで、差異を感じることがしばしばある。大陸国と島国という地理的差異、あるいは罪や恥の感じ方の違いということで済ませてしまってよいはずはない。

(掲載日 2008年11月24日)

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