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東海大学法学部教授
西山 由美
今年のアカデミー主演女優賞は、米独合作映画「愛を読むひと」でハンナを演じたケイト・ウィンスレットだったが、この映画の原作『朗読者』(松永美穂訳、新潮文庫)の作者ベルンハルト・シュリンクが、ドイツでも著名な憲法学者であることをご存じだろうか。日本でも定評のあるドイツ憲法の基本書『現代ドイツ基本権』(法律文化社)の共著者である。1987年から約9年間、ノルトライン・ヴェストファーレン州憲法裁判所の判事であったシュリンクは、現在、フンボルト大学(ベルリン)の憲法教授である。
『朗読者』の前半で描かれているのは、15歳の少年ミヒャエルと、母親ほど年の離れた神秘的な女性ハンナの濃密な性愛である。ハンナはなぜ、情事の前にいつもミヒャエルに本の朗読を懇願したのか。ハンナはなぜ、市電の車掌としての昇進チャンスを前にして、町から忽然と姿を消したのか。その謎は、数年後に法学生となったミヒャエルが、たまたま傍聴した裁判の被告席にハンナを見いだすことで明らかになる。ハンナは、アウシュビッツ強制収容所看守時代の罪に問われていたのである。
物語の後半は、傍聴席のミヒャエルの視線を通して、ハンナが裁かれる法廷の様子を淡々と描く。ハンナのたった一つの「秘密」は、彼女を善良な工場労働者から収用所看守に変え、多くの収容者の死に関与させ、ついには法廷で元同僚たちの罪まで一身に背負わせることになる。冷酷で、悪賢い為政者は、人の無学と功名心を巧みに利用するのだと、改めて痛感する。無学であっても、権力者への忠誠心さえ示せば、権威ある仕事―他人の生と死を選別する仕事―が約束される。このようにして地位を得た者は、忠実に職務に励むことだろう。そのような異常な状況で、死に追いやる者に最後の安らぎを与えようとする思いは、報いられるどころか、いずれ自分に不利な状況証拠となってしまう。
いわゆる「アウシュビッツ犯罪」に対する時効が撤廃され、1960年代半ばにおいても、この種の裁判は珍しくなかったという。収容所職員の犯罪行為が、すでに行為当時の刑法に定められていたといえるのか、それとも当時は彼らの行動に刑法が適用されることはなかったことを重視すべきか。法とはなにか、法令集に載っているものが法なのか、社会で実際に行われ、遵守されていることが法なのか、とミヒャエルは自問する。
ハンナとミヒャエルの愛の顛末は、ぜひ原作をお読みいただきたい。なおシュリンク自身は、この物語が自分の実体験にもとづくものではないと言っているらしい。
(掲載日 2009年10月26日)