第97回 ヒト幹細胞研究の法規制緩和

高島国際特許事務所※1
所長・弁理士 高島 一

わが国の幹細胞研究に関する法規制が、今後のヒトiPS細胞の臨床応用に影を落とす懸念があるのではないかについて述べてみたい。

前回もお話したとおり、胚(胎児と呼ばれるようになる前の細胞の塊)を壊して作るES細胞と、皮膚細胞などから作られるiPS細胞とは、実質的に同一物であるといってよいぐらい類似している。従って、ヒトES細胞を用いて蓄積された研究成果の多くは、そのままヒトiPS細胞にも適用可能である。ところが、マウスやサルのES細胞を用いた基礎研究においては、日本発の論文発表数は世界全体の約3割をも占めるのに対し、ヒトES細胞に関する論文数はわずか1%程度にしかすぎない。このように、わが国のヒトES細胞研究が大きく立ち遅れてしまったことには、研究の認可のための倫理審査が厳しすぎることが大きく影響している。

文科省は2001年に「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」を告示し、ヒトES細胞の樹立と使用の両方について、実施機関内部の倫理審査に加え、国の確認を必要とする二重審査体制という非常に厳しい要件を課した。ヒト胚の提供と使用を不可避的に伴う「樹立」研究に慎重な審査を課すのは世界的にみても普通である。しかし、既存のヒトES細胞株を実験室内で「使用」するだけの研究に対してまで、同様の厳しい審査を課している国は他に例がない。カトリックの影響力が強く、樹立研究を禁止しているフランスやイタリアですら、使用研究は推進する方向に政策を転換した。わが国もようやく昨年8月に、使用研究については届出のみでよいと手続を簡素化したが、約10年間にわたるヒトES細胞の使用研究の過剰規制によって、ヒトiPS細胞の臨床応用に向けた基礎研究として最も重要な、ヒトES細胞から機能細胞への分化誘導の研究が立ち遅れる結果となった。この立ち遅れは、わが国のヒトiPS細胞研究の将来にとって楽観視できない影響を与える懸念があろう。

このような状況に陥った直接的な原因は、行政が、何か問題が生じた際のことを懸念して過度の規制をかけたことに一因があろうが、わが国における生命倫理の議論が往々にして非科学的な方向に進む傾向にあることも、行政側の規制を助長してきたといえよう。

ES細胞研究の倫理審査には、法学者や生命倫理の専門家の参加が義務づけられている。科学者側の性急な意見に対する歯止め役と位置づけられるが、現実の倫理審査の場では、これらの委員から、生命倫理に配慮し過ぎて、起こる可能性が低く重大でもない問題点を必要以上に論う意見が出されることも少なくないように聞いている。しかし技術開発を知財面からサポートする弁理士の立場からすれば、規制は極力付すべきではなく、技術開発を促進することが望まれるところである。真に重大で無視できない問題点と、ゼロリスクではないが技術の発展に欠かせない研究とを仕分けることが重要である。両者を合理的に仕分けるには、豊富な科学知識と研究現場で培われた経験が不可欠である。この点を考慮すると、科学者の見解、発言は重視すべきであり、これによってわが国における偏った生命倫理の議論が是正されてヒト幹細胞研究の法規制がより適切な方向に整備されること、さらには我国がヒトiPS細胞の臨床応用における世界的開発競争に打ち勝つことを期待する。

 

(掲載日 2010年3月8日)

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