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北海道大学法学研究科教授
田村 善之
1 両作品のなかでどこを比較すべきかということを誰が決めるのか?
釣りを題材とした携帯電話機用インターネット・ゲームソフトの配信をめぐって、グリーとDeNAというモバイルゲーム業界の大手同志が著作権侵害の成否を争った訴訟として耳目を集めた「釣りゲータウン2」事件は、第一審が著作権侵害を認めて原告グリー勝訴(東京地判平成24.2.23平成21(ワ)34012)、控訴審が一転して著作権侵害を否定して被告DeNA勝訴(知財高判平成24年8月8日平成24(ネ)10027)という経緯を辿り、いまも訴訟は上告審に舞台を移して進行中である。いうまでもなく、この事件では、具体的な当てはめの問題として、二つのゲームが著作権侵害が肯定されるほど似ているのかということが究極的な争点なのであるが※1、それとは別に、控訴審判決の説示は、著作権侵害の判断基準の一般論としてみても、極めて論争契機的なものを含んでいる。
この事件では、原告ゲームと被告ゲームのどの部分を比較するのか、ということを誰が決めるのかということが問題となった。
本件で原告は、たとえば、「同心円が表示された以降の画面」における両作品の創作的な表現の共通性に焦点を当てて著作権侵害の成否を判断することを求めていた。しかし、控訴審判決は、「まとまりのある著作物」なる概念を持ち出し、その一部のみを特定して対比することは許されないと論じ、「魚の引き寄せ画面の冒頭の、同心円が現れる前に魚影が右から左へ移動し、更に画面奥に移動する等の画面」や「中央の円の部分に魚影がある際に決定キーを押すと、『必殺金縛り』、『確変』及び『一本釣りモード』などの表示がアニメーションとして表示される画面」など、原告が対比を求めていない前後の画面の対比を要求したうえで、かかる前後の部分が異なることをもって、「本質的な特徴を直接感得」しえないとする結論を導いている。
このような控訴審判決の立場は、たとえば、被告書籍の本文217頁中の2頁にわたって、原告書籍をほぼ丸写しした叙述が展開されているという事案で、裁判所が、原告主張部分だけでは足りず、「まとまりのある著作物」の単位で比較しなければならないと論じ、当該2頁以外の原告が対比をもとめていない前後の頁や章が異なることを理由に、著作権侵害を否定することできるような論法となっている。しかし、むしろ、従前、有力であった理解は、かりに217頁の被告書籍中2頁のみが似通っているに過ぎないとしても、その部分が創作的な表現である限り著作権侵害というに十分であり、この場合、たとえば被告書籍全体と原告書籍の全体を比較して、当該盗用部分は枝葉末節に過ぎないなどと抗弁しても功を奏するものではない、というものであったはずである(東京地判昭和53.6.21無体集10巻1号287頁[日照権])。どうしてこのような理解が唱えられるのであろうか。
2 江差追分最判の読み方に関する二つの立場-「本質的な特徴の直接感得性」基準の独自性否定説と肯定説-
本件控訴審判決の理解は、最判平成13.6.28民集55巻4号837頁[江差追分]※2 の説示に起因している。同最判は、著作権侵害の基準として、「本質的な特徴」を「直接感得」することができるか否かという一般論を展開したうえで、両著作物に共通するところが創作的な表現とまではいえない場合には、いまだ著作権侵害は成立しない旨を説いていた。後に本判決の理解として争いが生じたのは、前段部分の「本質的な特徴の直接感得性」基準と、後段部分を「創作的な表現の共通性」基準との関係である。
① 「創作的な表現の共通性」基準一元説(=「本質的な特徴の直接感得性」基準の独自性否定説)
当初、有力となった考え方は、前段の「本質的な特徴の直接感得性」は後段の「創作的な表現の共通性」と同じことを言っており、つまり「本質的な特徴」とは「創作的表現」に他ならないと考える立場である。筆者もその一人である。
江差追分最判の文言だけを読んでいると、「本質的な特徴の直接感得性」基準は、創作的な表現の共通性基準とは別個独立のものとして前置かれているのであるから、この見解はとり得ないように思われるかもしれない。しかし、歴史的にみると、この「本質的特徴の直接的感得性」という基準は、いまだ「創作的な表現」というものが著作権法のアルファでありオメガでもあるという理解が浸透していなかった時代に下された最判昭和55.3.28民集34巻3号244頁[パロディ] で示されたものである。「本質的な特徴の直接感得性」基準の独自性を否定する見解は、江差追分最判は、過去の最高裁判決との連続性を保つために引用したに過ぎず、本心は「創作的表現の共通性」という新たな基準を打ち立てるところにあったとないと見るのである。
江差追分最判が下された後、しばらくはこの独自性否定説が一般的な理解であったように思われる。
② 「本質的な特徴の直接感得性」基準+「創作的な表現の共通性」基準二元説(=「本質的な特徴の直接感得性基準の独自性肯定説」)
ところが、2007年の著作権法学会において、江差追分最判の調査官を担当された髙部眞規子判事自身が、この判決は独自性肯定説を当然の前提としていると読むべきであるという見解を発表したので、議論は新たな段階に突入することになった※3。調査官解説※4 にはそのような読み方を前提とする記述は見られなかったのであるが、経緯はともかく、調査官自身がこのような理解を提唱したことの意味は大きく、以降、学界は江差追分最判の理解をめぐって二分されることになる。
そのようななかで、本件控訴審判決は、ほかならぬ髙部眞規子判事自身が裁判長をつとめた判決であり、明確にこの独自性説に従って判断が下され、しかもそれが傍論とはいえないものである点で、重要な意義を有するといえよう。
3 いずれに軍配を挙げるべきか?
1) 理論的に未完成ではないか?
しかし、このように江差追分最判の説示中の「本質的な特徴の直接感得性」基準に独自の意義をもたせたうえで、「まとまりのある著作物」「作品」単位での比較を要求する控訴審判決のような立場は、理論的に未完成なところがあり、裁判規範として通用させるには危ういところがあるように思われる。
最大の問題点は、同説は、被疑侵害著作物において創作的な表現を共通にしている部分を越えて、その周辺における部分も取り込んだうえでの比較を要求しているわけであるが、そのような比較の対象とすべき被疑侵害著作物の部分を特定する手法が何ら示されていないということである。
たとえば、この見解を提唱した前述の髙部論文は、この点に関し、「対比すべき部分と訴訟物」と題して、原告の主張だけでは決まらず、被告は、「もう少し広い部分」「著作物の全体」で対比部分を取り込むことが許されるというに止まり、それ以上にこれらの外延を画する具体的な基準は示されていない※5 。この点は、本件の控訴審判決においても結局、克服することができず、「まとまりのある著作物」(「もう少し広い部分」の発展形態であろうか)、「作品」(「著作物の全体」の言い換えであろう)という概念が定義なしに用いられているに止まる。
2) 予測可能性・法的安定性の欠如
本件控訴審判決と異なり、江差追分最判の理解として創作的な表現の共通性一元論に立脚する場合には、創作的表現が再生されている限り、付加された部分(多寡は問わず)があっても侵害は侵害となり、基準は明確である。これに対して、控訴審判決のような考え方の下では、原告と被告の著作物において創作的表現が共通していたとしても、なお外延が不明確な「まとまりのある著作物」であるとか「作品」単位での比較を要求されることになり、著作物の類似性 という形で著作権の保護範囲を予測することが不可能となる。控訴審判決の立場の下では、過去の裁判例のように、創作的表現を共通にしている部分が被疑侵害書籍のうちの217頁のうちの2頁だけであったり、144頁のうちの1頁内の3コマだけだったりした場合(同一性保持権侵害の肯定例であるが、東京高判平成12.4.25判時1724号124頁[脱ゴーマニズム宣言])、あるいは被疑侵害番組の前半部分のストーリーだけだったりした場合(東京地判平成5.8.30知裁集25巻2号310頁[悪妻物語?]、東京高判平成8.4.16知裁集28巻2号271頁[同])、いったいどの範囲でその周辺部分が「まとまりのある著作物」として、はたまた「作品」として比較対象に取り込まれなければならないのかということに関して予め予測することが困難となる。
3) 実益はあるのか?
控訴審判決のような見解が、以上のような混乱を引き起こすものだとしても、それを補って余りある利益がもたらされるのであれば、その採用もやむなしということになるのかもしれない。
可能性としては、著作物の利用に付随して他の著作物が随伴して用いられる、いわゆる写り込みの事例や、パロディの事例において、この要件を活用して侵害を否定することが可能となるかもしれない。しかし、前者であれば写り込みの経緯、後者であればパロディにおいて当該著作物を用いなければならない必然性などに代表されるような、利用目的や利用の必要性、著作権者に与える不利益など、両著作物の比較に還元し得ない諸要素を総合衡量する法理の下で非侵害の方向に考慮するべき事柄であろう。すでに写り込みについては、その広狭の問題はともかくとして、2012年の著作権法改正により30条の2という制限規定が導入されている。パロディに関しても、むしろ、著作権法32条1項の引用の問題として処理するほうが座りがよいだろう。最近では、立法に向けた動きも見られるところである。
4 結び
このような次第で、釣りゲータウン2控訴審判決は、大手企業の争いという衝撃を越えて、著作権法の一般理論に関しても影響する重要な判決であるといえる。はたして、江差追分最判の意味を確定するために、上告審がその門戸を開き、上告を受理して、再度、著作権侵害の判断基準が最高裁を舞台に争われることになるのか、事件の経緯を注視することにしたい※6。
(掲載日 2013年1月28日)